THEME 理論/技術
定量・定性の両面から現場にアプローチして人と組織を理解する

株式会社デンソーの藤澤優氏は2023年、岩本慧悟氏との共著で『実践ピープルアナリティクス』(日本能率協会マネジメントセンター)を出版した業界のエキスパートだ。現職のデンソーをはじめ、いくつかの会社でピープルアナリティクスを実践してきた藤澤氏に、ピープルアナリティクスの本質的な定義、具体的な取り組み事例、新技術との関係などを詳しく伺った。
人事はすでに定性アプローチの経験がある
入江:どのような経緯でピープルアナリティクスに携わったのですか?
藤澤:大学院では社会学を学んでいました。社会調査の方法論に惹かれ、修了後はマーケティングリサーチ会社に入社しました。マーケティングリサーチも面白かったのですが、人間の複雑さや感情面にもっと深く関わりたいと思っていました。あるとき、人事データ分析の仕事があると聞いて飛び込んで以来、ピープルアナリティクスに関わっています。人材サービス企業と飲食サービス企業の2社を経て、2022年からデンソーで働いています。
入江:3社に違いはありましたか?
藤澤:人事データの活用に関心があるという点では違いはなかったです。1社目で働き始めたとき、ピープルアナリティクスは定量分析一辺倒でした。ですが、1社目の終わり頃に、定量だけでは難しいと感じ、自ら社員インタビューを行うようになり、定性アプローチの大切さを知ったのです。
入江:『実践ピープルアナリティクス』でも、定量アプローチ(量的アプローチ)と定性アプローチ(質的アプローチ)を同程度に扱っている点が印象的でした。
藤澤:おっしゃるとおり、ピープルアナリティクスには、定量と定性の両方のアプローチが必要です。
入江:人事の皆さんは、どのような反応を示しますか?
藤澤:人事の皆さんの多くは、定量アプローチにハードルを感じています。数学に苦手意識があったり、統計に詳しくなかったりするからです。
一方で、多くの皆さんが現場ヒアリング・退職面談・研修観察などの形で定性アプローチはすでに何らかの経験があり、苦手意識がありません。
ただ、インタビューや観察調査など、定性アプローチの方法論は知らないことがほとんどですから、学んでいく必要があります。人事の皆さんは方法論さえ学べば、定性アプローチにはすっと入っていける傾向があります。
人事が人と組織から受け取れる情報を増やしたい
入江:なぜ、定量と定性の両方が大事なのでしょうか?
藤澤:ピープルアナリティクスといえば、数値で表す定量アプローチのことだと思っている方が大半です。
でも、私はピープルアナリティクスの本質を、シンプルに「人と組織を理解すること」だと捉えています。「人と組織」という複雑で、繊細で、多様な対象を理解するためには、定量と定性の両方のアプローチを使いこなす必要があると考えているのです。
数値で表現される定量データは、情報をぎゅっと数字に凝縮しており、傾向や状況が分かりやすいという強みがあります。しかし、複雑で多様な人間のすべてが定量データで表されるとは限りません。
定量データが示す傾向や状況がなぜ起こったのかを理解したり、特定の個人・組織の問題解決を行ったりするときには、数値に表れてこない実態に迫っていく必要があります。そのとき定性アプローチが役立つのです。
『質的研究アプローチの再検討』(勁草書房)で、林岳彦先生が次のようなことを書いています。定量アプローチは事象についてある種の「法則」を見出すことに長けています。その法則をもとに物事を良い方向に変えていくとき、法則を物差しとして「個別」の対象を具体的に理解し、働きかけていくために定性アプローチが大事になってくるのです。つまり、人と組織を理解するためには、どちらも欠かせないのです。
定量に加えて定性もやるということは、「人と組織から受け取れる情報を増やす」ことでもあります。定量データを収集して終わりではなく、定性データも含めて、しっかりと現場の声を受け止める。ピープルアナリティクスはそのために存在しています。
ピープルアナリティクスで職場の面談の「質」が年々上昇
入江:デンソーのピープルアナリティクス事例を教えてください。
藤澤:例えば、「職場の面談の『質』」があります。デンソーは今、どれだけ良い人事制度を導入しても、上司と部下の対話がきちんと行われていない限りは意味がないと考えています。そのため、人事と職場が一体となって、面談の確実な実施や質の向上に挑んでいます。
その一環として、面談実施を支援するシステムの利用率や面談後のサーベイなどの定量データを通じて、面談実施率、部下が面談を実施してどう感じているかなどを確認しています。定量データ分析によって判明した効果の高い面談ポイントは、面談実施のための研修の内容に織り込むなど、定量データから得られる示唆を大事にしています。
しかし、システムやサーベイの情報から分かることは傾向や実態にとどまります。職場の具体的な想いや面談を実施するための工夫は、定性的な深掘りをしなければ見えてきません。そこで私たちは、良い面談スコアが出ている職場にインタビューを実施し、その現場の皆さんの面談に対する考え方や工夫を収集して、全社に横展開しています。この一連の取り組みで、面談のスコアは年々上昇しています。良い面談が社内中に少しずつ広まっているのです。
入江:定量データは、やはりサーベイが多いのですか?
藤澤:そうです。この事例のように、人事施策が現場に届いているかを計測したり、管理職や従業員がその施策をどう受け取ったのかを理解したりするためにサーベイをよく使います。サーベイによる効果測定は、私たちの最も得意とする専門領域ですから、多くなるのは当然かもしれません。
サーベイの多さは悩ましいことでもあります。すでに多種多様なサーベイが実施されており、そのデータを活用したいというニーズがあるのです。その結果、職場がサーベイで溢れてしまうこともあり、既存のサーベイを整理する相談に乗ることもよくあります。
また、サーベイの設問を少し変えるだけで、取得できる情報が増えることも珍しくありません。人事の皆さんはサーベイを我流で設計していることが多いため、社会調査の方法を用いて、ブラッシュアップすることも多いです。
「魔法の杖問題」はなかなかなくならない
入江:他にどんな事例がありますか。
藤澤:キャリア自律もデンソー人事の重要テーマの1つです。ただ、製造業のキャリア自律は難しいテーマでもあります。そこで自社の社員がキャリア自律するのはどういう状況かについて定量・定性データから分析し、その状態を可視化する「物差し」を作ることで、キャリア自律度合いの状況確認や施策の効果測定をより戦略的に行おうとしています。
具体的には、社内でキャリア相談を担当する社員に集まってもらい、デンソーらしいキャリア自律を具体化するワークショップを実施しました。そこで得られた要素をもとにサーベイを仮説的に設計し、社員の皆さんに答えてもらって検証しました。現在は、そうして完成した自社オリジナルの物差しで、キャリア自律度合いの測定やキャリア施策のデザインなどを行っています。
入江:こうしたプロジェクトをいくつ抱えているのですか?
藤澤:私たちは実質2名でピープルアナリティクスを行っており、1人が常時5〜6個のプロジェクトを抱えています。
入江:分析などで外部リソースを活用していますか?
藤澤:内外のリソースの使い分けが大切だと思います。紹介した事例のように仕組みづくりが絡んでいたり、定性アプローチを多用したりするときには、社内チームでやった方が小回りが利き、進めやすいです。一方で、定量分析の切り出しができる場合は、外部の専門家にお願いする方法も有効です。
入江:プロジェクトを進める上で難しいことはありますか?
藤澤:「魔法の杖問題」が起こることがよくあります。私たちが定量データの活用を提案すると、数字はすべてのことが理解できる魔法の杖ではないか、と捉えられてしまうことがあるのです。
この問題が起きたときには、丁寧にコミュニケーションをとって、数値はあくまでも参考情報の1つにすぎないこと、個別の問題解決には定性アプローチが欠かせないことを理解してもらうようにしています。しかし、魔法の杖問題はなかなかなくなりません。ピープルアナリティクスの理解の在り方を地道に広める他にないのだろうと思います。
現場と社員の悩みや苦しみに寄り添うことが大切
入江:ChatGPTなどの新技術は、今後どのようにピープルアナリティクスに関わってくるのでしょうか?
藤澤:ChatGPTによって、私たちの仕事はかなり変わると思います。データ収集の観点では、ChatGPTなどの技術が社員の問い合わせや相談用のチャットボットに使われるようになるでしょう。そうなれば、社員が何に困っていて、どう考えているかといった定性データが大量に集まるようになります。
例えば、上司や同僚には「転職を含めたキャリア相談」をしにくいものです。ChatGPTが何でも気軽に優しく相談に乗ってくれるのなら、そちらを利用する人は多いのではないでしょうか。もちろん、評価フィードバックのような対話は従来どおり人対人で行われる可能性が高いですが、自分の考えや気持ちを整理する場面ではChatGPTに置き換わる相談も多いはずです。
ただし、ChatGPTを本格導入する前に、人事が「AIと人の境界線」をよく考える必要があります。どこまでは人がやるべきで、どこからはAIに任せられるのかといった論点を考えることが重要です。これは人事業界の皆さんと一緒に広く議論すべきことかもしれません。
データ分析の観点では、すでに統計分析や予測モデル構築にChatGPTを活用できるようになってきています。このままいけば、定量データの分析ハードルはぐっと下がるはずです。定性データ分析でも、人とChatGPTが協力して、膨大な言語情報を素早く解釈できるようになる可能性があります。
データ活用の観点では、社員が相談してきた際に、ChatGPTのような技術を通じて社員に社内情報・施策・事例などをレコメンデーションできるはずです。ChatGPTと定量・定性アプローチを起点にして、人事と職場がより密接につながり、PDCAが着実に実行されるという期待があります。
入江:最後に、ピープルアナリティクスに関わる読者に向けて、アドバイスをいただけないでしょうか。
藤澤:繰り返しになりますが、大事なのは「人と組織を理解すること」です。さらに大切なのは、「現場と社員の悩みや苦しみに寄り添うこと」です。そのためには、現場と社員に関心をもち、何が起こっているかを知ろうとする姿勢が欠かせません。デンソーの人事部門では「ゴールは職場にあり」というポリシーを掲げていますが、まさにその実践を体現することこそ、定量と定性のピープルアナリティクスだと思います。
例えば、リスキリングを進める場合、社員がどのくらい前向きか、不安かを調査して、彼らの気持ちに寄り添いながら推進するのは、ピープルアナリティクスの大事な役目の1つです。
その際、定量データだけで完結しようとせずに、現場に足を運んで話を聞くことがポイントです。現場から得られる情報は、膨大で豊かだからです。
【text:米川 青馬 photo:伊藤 誠】

複数の企業でピープルアナリティクスを実践されてきた藤澤さんに今回はお話を伺いました。
人事の世界でも、かねてから実務・研究の双方で、「人と組織を理解する」ために、アンケートなどの定量アプローチとインタビューなどによる定性アプローチが併用されていました。2つのアプローチは対立するものではなく、補完的なもので、両者を組み合わせることに価値があります。
しかし、自戒も込めて言うと、ピープルアナリティクスに関する解説や事例として、これまでは「定量」の側面が強調されるものが多かったと思います。
また、KEYWORDでは、定量アプローチと定性アプローチを対比的に記述しましたし、一般的にも対比的に扱われることが少なくありません。
しかし、例えば適性検査の結果で「個人を理解する」こともあれば、アンケートのフリーコメントで「多くの従業員が求めていること」を確認することもあります。定量と定性の境界は、実は曖昧です。
それゆえ、藤澤さんのおっしゃるとおり、「人と組織を理解する」という本質を大切にし、さまざまなデータや情報、またアプローチを組み合わせていくことを、皆さんにお勧めしたいと思います。
※HAT Labとは
正式名称HR Analytics & Technology Lab。リクルートマネジメントソリューションズが先進技術を活用して「個と組織を生かす」ための研究・開発を行う部門。中心テーマは、データサイエンスとユーザーエクスペリエンスの向上技術。所長は、2002年入社後、一貫して人事データ解析に関する研究・開発やコンサルティングに携わる入江崇介が務める。※本稿は、弊社機関誌RMS Message vol.71連載「データサイエンスで「個」と「組織」を生かす 連載第23回」より転載・一部修正したものです。
RMS Messageのバックナンバーはこちら。
※記事の内容および所属等は取材時点のものとなります。
PROFILE
藤澤 優(ふじさわまさる)氏
株式会社デンソー
事企画部 制度企画室 担当係長
大阪大学大学院人間科学研究科博士前期課程修了。修了後、マーケティングリサーチサービス関連企業に入社してマーケティングリサーチに従事。その後、人材サービス関連企業、飲食サービス関連企業にて、ピープルアナリティクスに携わる。2022年より現職。著書に『実践ピープルアナリティクス』(共著・日本能率協会マネジメントセンター)がある。
バックナンバー
第18回 経営と目線を合わせたピープルアナリティクスが今後の鍵になる(早稲田大学 政治経済学術院 教授 経済産業研究所 ファカルティフェロー 大湾 秀雄氏)
第19回 「人事の脱エクセル」が進む可視化中心のピープルアナリティクス(LINE株式会社 Employee Success室 HR Data Managementチーム 佐久間 祐司氏)
第20回 「信頼」を科学してイノベーションを生み出す日本にしたい(株式会社シンギュレイト 代表取締役 鹿内学氏)
第21回 社員の「ワクワク感」を高めるEX観点を日本の常識にしたい(PwCコンサルティング合同会社 ディレクター 土橋隼人氏)
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