THEME 理論/技術
社員の「ワクワク感」を高めるEX観点を日本の常識にしたい

PwCコンサルティング合同会社 ディレクターの土橋隼人氏(写真右)は、「EX(エンプロイーエクスペリエンス)」に関するサービスを日本でいち早く展開し、2022年にHRテクノロジー大賞優秀賞を受賞したサービスをリードするなど、EXの先駆者だ。EXとは何か。なぜ企業にEXが必要なのか。日本企業がEXを導入するにはどうしたらよいのか。コンサルタントの土橋氏が、今なぜEXを重視しているのか。詳しく伺った。
EXは従業員エンゲージメントを高める
入江:まずは自己紹介をお願いします。
土橋:私は2008年に新卒でPwCコンサルティングに入社して以来、一貫して組織・人事領域のコンサルティングに従事するコンサルタントです。メインの担当領域は、組織・人材マネジメント戦略策定、人事制度改革、M&A・組織再編に伴う制度統合支援などです。
一度他社に転職し、2017年にPwCに戻ってきました。EX(エンプロイーエクスペリエンス)やピープルアナリティクスを新たに手掛け始めたのは、その頃からです。
入江:まだEXが日本に入ったばかりの頃ですよね。
土橋:そうです。今でこそEXの認知度は高くなりましたが、当時はEXという言葉を知らない人事の方が大半でした。この7、8年で、EXが日本企業にずいぶん広まったと感じています。
入江:そのときから積み重ねてきた努力や経験が実って、HRテクノロジー大賞の優秀賞を2度も受賞するに至ったわけですね。
2つの受賞サービスのお話の前に、読者の皆さんに、まずEXについて簡単に説明していただけますか。
土橋:EXとは、「従業員個人が会社内や組織内で経験する体験価値」のことです。マーケティングのCX(カスタマー・エクスペリエンス)やUX(ユーザー・エクスペリエンス)の考え方を人事に応用した概念です。実際、CXやUXの専門家がEXの専門家としても活躍している例があります。
EXを向上するためには、従業員が社内でより良い体験を積めるようにすることが必要です。代表的な施策例に、オンボーディング、オフボーディング、個人の志向性に合わせた研修コンテンツの提供、従業員の声の収集・分析などがあります。働く場所・働き方の改革や健康経営などもEX向上策の一環です。さらにいえば、人事施策のすべてがEXに関わっている、と捉えることもできます。詳しくは後ほど説明します。
今、多くの日本企業がEXに注目していますが、その最大の理由は、EXが高まることで、従業員エンゲージメントが高まると考えられているからです。エンゲージメントの向上は、日本企業の最も大きな組織課題の1つであり、EX向上はその解決に役立つのです。最近は私たちのところにも、エンゲージメントを高めたいといった文脈での引き合いが明らかに増えており、盛り上がりを感じています。
従業員の気持ちや体験価値を可視化するツールを開発
入江:では、2つの受賞サービスについて詳しく教えてください。
土橋:2018年に、第3回HRテクノロジー大賞・アナリティクスサービス部門で優秀賞をいただいたのは、「エンプロイー・エクスペリエンス・アセスメント(EXA)」です。これは、PwCが独自に開発したEXを形成する6領域における施策の実施状況のアセスメントで、自社の取り組み状況の強さ・弱さを領域別に把握すると共に他社の取り組み状況との比較も可能なものとしています。EX向上やHRテクノロジーの進むべき方向性に関する示唆を提供するサービスです。
EXAは、EX関連の取り組みの成熟度を測るために作りました。それまでは、オンボーディングやマイクロラーニングなどの単語は知られていましたが、どのような領域によって構成されているか分からず、EX施策の検討がどうしても部分的にならざるを得なかったという状況でした。そこで、EX領域を提示し、その取り組みの成熟度を測定するツールを自ら開発したというわけです。
入江:確かに、現状把握ができなければ、EX施策をどう改善していけばよいか分からないですよね。
土橋:おっしゃるとおりです。ただし、EXAでは、企業側の取り組みの変化は分かりますが、従業員の実際の気持ちや体験価値までは分かりません。
そこで次に開発したのが「Employee Experience Designer」です。このプロダクトは、2022年の第7回HRテクノロジー大賞で、人事マネジメントサービス部門優秀賞をいただきました。
入江:どのようなサービスですか?
土橋:Employee Experience Designerには3つの機能があります。
1つ目は、エンプロイー・バリュー・プロポジション(EVP)のアプローチ、つまり働く上で重視する価値観のフレームを活用して、従業員グループごとのペルソナを作り、従業員の多様な価値観を把握する機能です。
2つ目は、入社から退職までを200ほどのタッチポイントがあるジャーニーと見立てて、各ペルソナの体験価値やエンゲージメントがどのタッチポイントで下がっているかを、従業員目線で可視化する機能です。これを分析すると、企業が提供している体験の質が特に低い部分、すなわちペインポイントが見えてきます。
3つ目は、ペインポイントの課題を解決し、エンゲージメントを高めるためにどのようなEX施策を打てばよいかを提案する機能です。
入江:Employee Experience Designerを使うと、従業員の実際の気持ちや体験価値が分かるだけでなく、課題解決策の提案まで一気に行えると。
土橋:そのとおりです。
EX観点とは従業員目線で考えること
入江:ところで、土橋さんはなぜEXに力を入れているのですか?
土橋:私が担当領域だけでなく、EXを重視している最大の理由は、お客様に、従業員目線で考えることの大切さを伝えたいからです。
つまり、EXを最もシンプルに言い換えれば、「従業員目線で考えること」なのです。人事の皆さんは、普段は人事目線やマネジメント目線で考えています。もちろんそれは大切ですが、一方で人事視点・マネジメント視点だけでは見落としてしまうものもあるのです。EX観点に立つと、そうしたものを丁寧にすくい上げることができます。
「オンボーディング」を例に考えましょう。オンボーディングとは、新入社員にいち早く会社やチームになじんでもらうための一連の取り組みのことです。社内ルールを伝えたり、社内ITツールの使い方を教えたり、社風の理解を深めてもらったりと、さまざまなことがオンボーディングに含まれます。
オンボーディングには、新入社員の直属のマネジャーや人事部だけでなく、総務部・情報システム部・経理部など、管理部門全体が関係しています。ですから、人事目線・マネジメント目線だけでは、すべてに対応できません。オンボーディングをより良くするためには、各管理部門のメンバーが一堂に会して、全員で新入社員の視点に立ちながら、新入社員のエンゲージメント向上のためにはどのような仕組みやサポートが必要なのかを、力を合わせて考え、実行に移す必要があるのです。
これは、オンボーディングだけの話ではありません。退職者に気持ちよく退職してもらうための「オフボーディング」にも、やはり管理部門全体が関わっています。最近は、私のような出戻り社員を歓迎する会社が増えていますが、辞めるときに嫌な経験をすると、出戻りの可能性が一気に下がるといわれています。今後、オフボーディングに力を入れる日本企業が増えるはずです。
さらには、「従業員の声」の収集や分析も同様です。日本企業の場合、従業員の声をどの部署が責任をもって扱うのかが決まっていないケースが多いのが現状です。人事や総務など、それぞれに伝えられていることはあるものの、その声が十分に活用できていないことが多い。従業員の声を効率的かつ効果的に収集・管理・分析・活用するためには、やはり人事・総務・情報システム・経理・経営企画などの各部門メンバーが話し合って、どうするかを決める必要があるのです。
ですから、私たちはEXコンサルティングの一環として、管理部門横断のワークショップを開催することがよくあります。このとき、皆さんに最も大事にしていただくのが、「従業員目線」です。誰もが従業員の視点を忘れずに話し合えたら、EX施策は自然と良い方向にまとまっていくものなのです。
入江:土橋さんがEXで大事にしているキーワードは何ですか?
土橋:最近は、「ワクワク感」という言葉をよく使います。
例えば先日、ジョブ型人事制度の設計・運用支援をしました。その企業で制度と同じくらい重要な課題だったのが従業員の皆さんの自律的なキャリア開発やスキル開発の促進でした。
私たちは、「皆さんがワクワクする仕掛けを作りましょう」と提案しました。具体的には、自分が新たに得たスキル、新たに学んだ研修などを入力すると、自分が就きたい仕事やポジションとの適合度が分かるツールを提案しました。入力データが増えるほど、精度が高まる仕組みです。このように、ゲームのような感覚で使いたくなるツールを用意すれば、従業員の皆さんも日常的に使ってくれるのです。これこそがEX観点です。必要なのは「遊び心」です。
会社と従業員の対等な関係を目指すことがEXの第一歩
入江:どんな会社がEXやエンゲージメントの向上に成功していますか?
土橋:会社と従業員をできるだけ対等な関係にしようとしている会社は、EXがうまくいっています。もちろん、会社と個人が完全に対等になることはありませんが、対等を目指すことは可能です。その努力を続けている会社は、たいがい優れたEX施策を行っています。
なぜなら、会社と個人が対等な関係なら、会社側が従業員目線で考えるのが当たり前だからです。そうした会社はEXに理解があり、EXに必要なHRテックツールを導入する提案などにも前向きです。EX施策をより良くするために従業員と話し合うことにも積極的です。EX観点がそもそも備わっている、と言ってもよいかもしれません。会社と従業員の対等な関係を目指すことが、EX成功の第一歩です。
入江:日本企業のEXにおける課題は何でしょうか?
土橋:EXの延長線上には「人事の個別化」があります。しかし、人事の個別化はかなり難しいチャレンジで、具体的な取り組みはこれからです。ラーニングコンテンツの個別レコメンドのようなことなら現状でも可能ですが、実際にどこまで個別化ができるのかは不明な点が多いのが現状です。
例えば、Employee Experience Designerを使うと、いくつかの従業員グループのペルソナを作れると、先ほどお話ししました。しかし、属性別に施策が打たれる面もあるので、ペルソナごとに効果的な人事施策を実行するのはまだ難しいのです。さらなる研究が必要です。
入江:最後に、EXに関する土橋さんの目標を教えてください。
土橋:EX観点で考えることを日本企業の常識にしたい、と願っています。従業員のワクワク感を高めるにはどうしたらよいか、従業員がもっと気持ちよく働けるには何を改善したらよいか。日本の人事全員が、日常的にそういう視点をもって考えるようになったら、日本は変わると思うからです。
日本企業の人事部には真面目な方が多く、「ワクワク感を大事にしましょう」などと言うと、驚かれることがよくあります。だからこそ、私はEXの伝道師として、ワクワク感の大切さを広め続けたい、と思っています。
【text:米川 青馬 photo:伊藤 誠】

本業に加え、日本人材マネジメント協会の理事を務め、さらにさまざまなHR関連イベントでスピーカーやファシリテーターを務めることも多い土橋さんに今回はお話を伺いました。
当日、土橋さんもおっしゃっていましたが、サステナビリティ経営や人的資本開示への関心の高まりから、エンゲージメントへの関心も高まっています。
一方、さまざまなレポートで指摘されるように、現在の日本ではエンゲージメントが必ずしも高くないという問題があります。この問題を解決するためには、土橋さんが大切にする「ワクワク感」を高めることが大事だと、私も思いました。
この「ワクワク感」は、短期で高まるものではなく、さまざまな仕組み・仕掛けがなければ持続しないものだと思います。また、個々人で発露のきっかけも大きく異なると思います。
そう考えると、さまざまなタッチポイントでの体験、そこで生まれる感情、そして個々の価値観にまで目を向けるEmployee Experience Designerの考え方は、とても本質的で、大切なものだと思いました。
私たちの「ワクワク感」を高めるために、これからまた新たに土橋さんが発せられるメッセージやプロダクトが非常に楽しみです。
※HAT Labとは
正式名称HR Analytics & Technology Lab。リクルートマネジメントソリューションズが先進技術を活用して「個と組織を生かす」ための研究・開発を行う部門。中心テーマは、データサイエンスとユーザーエクスペリエンスの向上技術。所長は、2002年入社後、一貫して人事データ解析に関する研究・開発やコンサルティングに携わる入江崇介が務める。※本稿は、弊社機関誌RMS Message vol.68連載「データサイエンスで「個」と「組織」を生かす 連載第21回」より転載・一部修正したものです。
RMS Messageのバックナンバーはこちら。
※記事の内容および所属等は取材時点のものとなります。
PROFILE
土橋 隼人(どばし はやと)氏PwCコンサルティング合同会社 ディレクター
監査法人系コンサルティングファーム2社を経て現職。約10年にわたり、組織・人事領域のコンサルティングに従事。組織・人材マネジメント戦略策定、人事制度改革(等級・報酬・評価制度の設計および導入支援)、M&A・組織再編に伴う制度統合支援、コーポレートガバナンス体制構築など、幅広い領域を支援。
バックナンバー
第16回 負荷を増やさずに人事データを民主化し意思決定を変える(パナリット株式会社 Co-founder/ COO トラン チー氏)
第17回 マーケットデザインとマッチング理論で適材適所を促進する(東京大学大学院経済学研究科教授 東京大学マーケットデザインセンター(UTMD)センター長 小島 武仁氏)
第18回 経営と目線を合わせたピープルアナリティクスが今後の鍵になる(早稲田大学 政治経済学術院 教授 経済産業研究所 ファカルティフェロー 大湾 秀雄氏)
第19回 「人事の脱エクセル」が進む可視化中心のピープルアナリティクス(LINE株式会社 Employee Success室 HR Data Managementチーム 佐久間 祐司氏)
第20回 「信頼」を科学してイノベーションを生み出す日本にしたい(株式会社シンギュレイト 代表取締役 鹿内学氏)
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