「働く」ことについてのこれまでとこれから 第7回 労働中心の時代(近代以後の労働)【後編】

執筆者情報
組織行動研究所
所長
古野 庸一

今回から近代以降の労働を扱います。
農業などの自営ではなく、工場などで雇用される人の割合が急激に増加し、それに伴い、職住は分離し、時間の意識が普及していきました。そのような近代の労働は、現代の労働環境の土台になっていきます。そこでは実際にどのようなことが行われていたのか見ていきたいと思います。

◆前編はこちら


協業と分業のはじまり

明治期は、近代的な労働形態が確立した時期でもあります。その最大の特徴は、協働と分業にあります。それまでの農民の労働でも、村のなかや家族のなかで、協働・分業することはありましたが、協働する組織の大きさや分業の徹底度が明治期とはまったく異なります。

農業において、同じタスクを何週間も行い続けることは多くありません。昨日は稲を扱ったが、今日は桑を扱うというように、日々扱う作物は変わります。漁村であれば、午前、漁業を行って、午後は農業も行うというように、1日の中でも、変化に富んだ仕事を行うのですが、工場のなかでは、1日中同じタスクを行い、そのタスクを数か月にわたって、場合によっては1年中、継続することは珍しくありません。

仕事は、組織の指示命令系統のなかで行われます。自分勝手に仕事をデザインするわけにはいかず、組織全体の動きのなかで自分の仕事が決まっていきます。仕事にもよりますが、工場での労働は農業に比べると、裁量の余地が少なく、工夫を凝らすよりも、決められた仕事を行うことを求められます。

時間に対する感覚も、江戸時代の農民とは違います。江戸時代の農民にも、時間の大切さは勤勉に働くことと共に、教えられていました。しかし、工場の時間は、より厳密です。始業時間と終業時間はもちろんのこと、その間の仕事も厳密に決められています。単位時間内での生産性は経営の大切な指標であり、向上させていくことが求められています。

江戸時代の勤勉な農民と同様に、朝早くから夜遅くまで、12〜14時間程度働いていたと考えられます。加えて、明治時代になって来日した外国人の観察と『職工事情』※1 などの書物から、工場での仕事は厳しく、絶え間なく働いていたと推測されます。

特定の場所に集まって仕事をする必要があるため、働く場と生活する場は分離されています。それゆえに、働く時間の合間に家事や育児を行うことは難しくなります。また、そのことは報酬のない仕事とある仕事を分離することにつながり、報酬のない仕事が軽視されるようになりました。必然的に、生活する家の周りでの共同体での活動は縮小されます。休日も少なく、長時間労働ということになれば、実質、地域での活動は不可能になります。職場に心許せる共同体を求めても、農村にあるような共同体を十分に提供できた企業は少なかったと考えられます。

組織のなかで働く際には、仕事の評価がなされます。仕事は上司から評価され、その評価によって報酬が決まるという仕組みが多くの組織で取り入れられます。農民や漁師などの自営業の場合は、タイムカードがあるわけでもなく、誰かが仕事ぶりを観察しているわけでもありません。報酬は、最終的な成果物で決まります。そのため、自分を自分でコントロールする必要があります。一方で、組織のなかでの仕事は、上司が評価することによって組織にコントロールされることになります。その結果、自分の働きぶりがどう評価されているのか、気になるようになります。

近代的な労働形態が確立していくと、総じて、仕事は個人の裁量や工夫の余地が少なくなり、誰かから指示をもらって動く、受動的な活動になります。労働に対する主体性の喪失を、カール・マルクスは、労働の疎外という視点で強調しました。個人は大きな組織のなかの代替可能な歯車であるため、行っている仕事に意義を感じにくくなります。そうなると、労働は回避すべきもの、報酬と引き換えに我慢するものとして扱うことになっていきます。

明治時代につくられた「労働」

哲学者の清水正徳によると、「労働」という言葉は、明治時代につくられたそうです※2。いわゆる「事をなす」という意味合いでの「仕事」、あるいは「傍(はた)を楽にする」という意味合いでの「はたらく」あるいは「勤労」という言葉はそれ以前から存在しましたが、「労働」という言葉はありませんでした。

代わりに、社会的な義務を果たす仕事という意味合いの言葉は、いくつか存在しました。「すけ」とは、土地、家畜、家屋などの貸与に対する返礼としての仕事、「ゆい」とは、田植えや稲刈り時に一気に仕事を行う際の相互扶助的な手伝い、「奉公」とは、他人の家に寄宿して生活し、そこで行う仕事を表す言葉です。いずれも共同体のなかでの仕事という意味合いが強く、時間に追われるような形で、賃金のために働くという概念に合う言葉は、明治初期にはなかったのです。

西洋から経済学が輸入され、賃金を得るための働き、あるいはできれば避けたい仕事を賃金のために仕方なく行うことに対して「労働」という言葉をあてたのです※3。そもそも、経済学においては、労働の時間を「やむを得ないもの」と捉え、労働者にとって「マイナスの効用」をもたらすものとして扱っています。その代償として、賃金という「プラスの効用」を得ます。「労働者は、できる限りの短時間労働で、多くを稼ぎ、余暇を楽しむ」ということが経済学における労働の前提になっています。

ただ、ここで確認しておきたいのは、明治の多くの労働者は、単に自分のために働いていたわけではないということ。農民はイエのために働き、繊維工場の女工たちの多くは家族の喜ぶ顔のために働いていたのです。

法律専門家として日本に派遣されていたジョルジュ・ブスケは、明治時代の家族関係を以下のように描写しています。「あらゆる犯罪のうちで最も重いものは親に対する義務に欠けることである」「父は、娘たちが拒まないなら、これを売ることができる。そして、この犠牲的行為は民衆的物語のなかで孝行の徳の1つの美しい行いとして引用されている※4」と。

明治時代に、開国し、外国からの文化の影響で、多くの日本人は近代的自我に目覚め、自己の内面を探索し、個性の発展を試みたといわれています。しかしながら、明治時代の人々を欧米人から見れば、あるいは、現代から見れば、自我に目覚め、個人的な利害を中心にして他者と関わっているというよりも、むしろ共同体を中心にして、共同体の利益を優先させる個人が主であったと考えられます。個人は共同体のなかにあり、共同体から自立して生きることはできないばかりか、共同体のなかに埋もれて生きている方が、価値が高いとみなされてもいました 。

近代的な工場における日本独自の制度

戦前の産業の柱は、繊維業や機械工業、造船業でした。繊維業が主に未成年の女子に依存しているのに対して、機械工業や造船業は男子の労働者で成り立ち、熟練労働者も多く、彼らの多くは結婚して一家をかまえていました。

最初の大企業である横須賀造船所では、すでに明治元(1868)年には600人の労働者を擁しており、その後、近代化と共に急激に大きくなりました。同造船所は、徳川幕府がフランスから支援を受けて設立したもので、のちに新政府が引き継ぎました。

日本史上はじめての近代的な工場であったため、試行錯誤しながら、独自の制度を構築していきました。

独自の制度とは、どのような制度だったのでしょうか。

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次回は、統計資料からみた現代の労働観をお届けします。

※1 犬丸義一校訂(1998)『職工事情』岩波書店
※2 清水正徳(1982)『働くことの意味』岩波書店
※3 武田晴人(2008)『仕事と日本人』筑摩書房
※4 ジョルジュ・ブスケ(1977)『日本見聞記』みすず書房

バックナンバー第1回 「働く」という概念が変わっていく
第2回 食うために働き、働くために食って寝る(狩猟採集民社会の労働)【前編】
第3回 食うために働き、働くために食って寝る(狩猟採集民社会の労働)【後編】
第4回 利己的な勤勉性(江戸時代の労働)【前編】
第5回 利己的な勤勉性(江戸時代の労働)【後編】
第6回 労働中心の時代(近代以後の労働)【前編】

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