連載・コラム
「働く」ことについてのこれまでとこれから 第6回
労働中心の時代(近代以後の労働)【前編】
- 公開日:2019/06/03
- 更新日:2024/05/28
今回から近代以降の労働を扱います。
農業などの自営ではなく、工場などで雇用される人の割合が急激に増加し、それに伴い、職住は分離し、時間の意識が普及していきました。そのような近代の労働は、現代の労働環境の土台になっていきます。そこでは実際にどのようなことが行われていたのか見ていきたいと思います。
急速な近代化と人口の増加
明治初期の有業人口は、2000万人弱。そのうちの7割、1400万人弱は農民でした。農家戸数は550万戸で、その戸数は第二次世界大戦期までほぼ変わりませんでした。農家戸数が増えも減りもしなかった理由は、イエ制度によるところが大きかったと考えられます。
江戸時代に形成された農家におけるイエ制度は、明治以降の近代になっても続きました。先祖代々受け継がれていたイエ、家業、家名ならびに土地を維持発展させるこの制度は、子々孫々に至るまで継承させていくものであり、イエをつないでいくことが長子の使命でした※1。イエそのものが増えたわけではないため、農家戸数は変化がありませんでした。しかし、人口の増加と共に、農業就業者の割合は少しずつですが、減少していきました。田畑は長子が相続し、次男以下の男子と女子は農村を離れ、勃興していた工場や商家へ仕事を求めました。その結果、就業人口割合の7割を占めていた農民は、1940年には5割を切るようになりました※2。
農林業と鉱工業の生産額を見てみますと、明治初期(1870年代)には6割以上を占めていた農林業の比率は、その後、徐々に低下していきました。1900年代に入ると、農林業に代わって、鉱工業の比率が5割を超え、第二次世界大戦直前の1940年には8割鉱工業、2割農林業という産業構造になりました※3。つまり、明治初期から第二次世界大戦までの間に、日本は急速な勢いで工業が成長、発展していったことになります。
戦前の日本全体を概観すると、産業構造の変化に伴い、人も移動しました。多くの子供は10代前半で、女子は紡績工場へ、男子は商家や機械工業、造船業、運輸業などへ送られました。結果、江戸時代後期、3500万人程度で均衡していた人口は、明治に入って急速に増え、第1回国勢調査が行われた1920年には5596万人に達していました※4。
恵まれた職場の富岡製糸場
明治5(1872)年、明治政府は殖産興業政策の一環として、群馬県富岡町(現富岡市)に官営富岡製糸場を設立しました。初期の富岡製糸場は、国のモデル事業であり、職業訓練学校の性格を帯びていました。若い女子を全国から募集し、富岡で習い覚えた器械製糸の技術を地元に持ち帰って、地元の工場で役立たせることが富岡製糸場設立の目的でした。初期の女工は、士族の子女が対象でしたが、親たちは応募を渋りました。大蔵省が各府県に命じた強制的な募集であったために、徴兵のように感じたというのがその理由でした。しかし、当の娘たちは平凡な暮らしに退屈しており、フランス式の近代的な工場という未知の世界に憧れて、応募を懇願しました。
実際、富岡の煉瓦造りの建物と最新式の設備に、女工たちは感激していました。
富岡製糸場の労働環境は、フランス式を導入しており、近代的でした。就業は、朝7時から午後4時半まで。9時から30分、12時から1時間、午後にも15分休憩時間があり、1日の労働時間は7時間45分でした。週に1度は休みにしていたほか、年末年始に10日、夏に10日、それとは別に年6日ほどの祭日がありました。
給料も高いレベルに設定され、寄宿生活を原則とし、寄宿代、食事代は自己負担なし。入浴は毎晩できました。構内には病院が建てられ、フランス人の医師が治療を行い、治療費・薬代・入院費もすべて自己負担なしでした。
富岡製糸場で訓練された女工たちは、その後、地元の工場で中心となって活躍していきます。しかしながら、その地元の工場の労働環境は、富岡製糸場のように恵まれたものではありませんでした。
苛酷な職場でなぜ働くようになったのか
鉱工業のなかでも繊維工業は顕著な発展を示し、1880年代には、鉱工業生産の5割近くを占めていました。特に製糸業は、輸出の6割を占め、日本の近代化を支えました。他の輸出品と違い、原料、技術のすべてを国内で自給できたことから、生糸関連産業は明治時代の日本の国際収支に決定的な役割を果たしました。当時、近代化を行うために、欧米から技術者を招いており、多額の外貨が必要でした。その外貨を稼いでいたのが、生糸関連事業だったといえます※6。
富岡製糸場とは違い、他の工場での労働は苛酷でした。朝早くから夜遅くまで、休む間もなく働いていたという記述が多く残っています※7。女工の出身も、良家の子女から農村や都市の貧しい平民層へ移行していきました。
文献によると、当時の製糸工場の労働時間は、14時間以上でした※8。休日は、年末年始と旧盆に数日。労働環境も、劣悪でした。熱湯を使用するため工場内の湿度は上がり、水蒸気が天井で冷やされ、大粒の水滴になって雨のように落ちてくるなかで、女工はずぶ濡れになって働いていました※9。そのような環境のなか、結核で命を落とす女工は少なくありませんでした※10。
そのような職場になぜ就職していたのでしょうか。
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次回は、日本的経営の形成などを取り上げた後編をお届けします。
※1 木村茂光編(2010)『日本農業史』吉川弘文館
※2 木村茂光編(2010)『日本農業史』吉川弘文館
※3 西川俊作・尾高煌之助・斎藤修 編著(1996)『日本経済の200年』日本評論社
※4 西川俊作・尾高煌之助・斎藤修 編著(1996)『日本経済の200年』日本評論社
※5 和田英(2014)『富岡日記』筑摩書房
※6 山本茂実(1977)『あゝ野麦峠 ある製糸工女哀史』角川学芸出版
※7 横山源之助(1949)『日本の下層社会』岩波書店
山本茂実(1977)『あゝ野麦峠 ある製糸工女哀史』角川学芸出版
細井和喜蔵(1954)『女工哀史』岩波書店
※8 犬丸義一校訂(1998)『職工事情』岩波書店
※9 山本茂実(1977)『あゝ野麦峠 ある製糸工女哀史』角川学芸出版
※10 細井和喜蔵(1954)『女工哀史』岩波書店
バックナンバー
第1回 「働く」という概念が変わっていく
第2回 食うために働き、働くために食って寝る(狩猟採集民社会の労働)【前編】
第3回 食うために働き、働くために食って寝る(狩猟採集民社会の労働)【後編】
第4回 利己的な勤勉性(江戸時代の労働)【前編】
第5回 利己的な勤勉性(江戸時代の労働)【後編】
執筆者
技術開発統括部
研究本部
組織行動研究所
主幹研究員
古野 庸一
1987年東京大学工学部卒業後、株式会社リクルートに入社 南カリフォルニア大学でMBA取得 キャリア開発に関する事業開発、NPOキャリアカウンセリング協会設立に参画する一方で、ワークス研究所にてリーダーシップ開発、キャリア開発研究に従事
2009年より組織行動研究所所長、2024年より現職
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