「プロ経営者」の育ち方・育て方 第8回 「為せば成る」を原点に、志と行動力が結果を生む 秋元 征紘氏

執筆者情報
組織行動研究所
所長
古野 庸一
執筆者情報
組織行動研究所
主任研究員
藤村 直子

このシリーズでは、「プロ経営者」の育ち方・育て方への示唆を得るために、複数企業で経営者としての実績を上げた社長へのインタビューを行っています。今回はその第8回として、日本KFCにて常務、日本ペプシ・コーラにて副社長、ナイキジャパン、ゲランにて社長職を歴任された秋元征紘氏にお話を伺いました。


経営者になる覚悟
〜学生時代にすばらしい社長たちに会って

― 経営者になることは、いつ頃どのように決められたのですか?

まず、私の原点についてお話ししますと、父が30歳ぐらいの時にフィリピンで戦死しまして、私には生まれた時から父がいませんでした。彼の座右の銘は「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」で、「お父さんがいつも言っていた」と母からよく聞いていました。母は教師だったんですけれど、子供を1人で育てながら続けるのが難しかったので、雑貨屋を始めました。昭和20〜30年の話ですから、母に対する日本の男社会はすごくアンフェアに感じました。父がいないというのは日本の社会では非常にきつかったんですね。私は学校では少しひ弱で真面目な子供だったと思うんですけれど、父の志を継いで「為せば成る」でがんばって結果を出して、いずれは例えば社長になるといった上昇志向のようなものが内にはありました。非常に内気だったけれどもそういう内に秘めたものがあって、それがその後の人生の原点になっていると思います。

― 幼少期から上昇志向があったとのことですが、「社長になろう」と具体的に意識し始めたのはいつ頃ですか?

大学生の頃です。高校時代に山や音楽に走って成績が落ちてしまって、特に英語が最悪で落第しそうになったんです。英語の授業で「君の成績で行ける大学なんて1つもないよ」とまで言われながら、別の英語の先生に師事して特訓、6カ月ぐらいの間に英語の成績を飛躍的に上げました。いずれその英語で飯を食うようになるんですけれどね。その時の原動力といえばやはり「為せば成る」でした。部活をやり過ぎて「こんなことをやっていていいのか」と急に自分で真剣に考えるようになって勉強を始めて、結局大学には1浪して入りました。

ある日、大学のキャンパスに、企業から寄付金を募って日本とオーストラリアの交換留学を実現するという取り組みを行っている団体がいて(日豪学生交換連盟)、一緒にやらないかと誘われました。いずれ英語を使った仕事をしたかったので、これは良い話だと乗ったのが運のつきで、3カ月ぐらいほとんど授業に出ないで企業を回りました。そうしたら、日立製作所の駒井健一郎さん、石川島播磨重工業の土光敏夫さん、日本精工の今里廣記さんなど、名だたる社長さんたちに会うことができたんです。その時に急に気づいたんですね。企業の一般社員から課長、部長、役員まで、いろんな立場の方にお会いして、「やっぱり社長だ」と思いました。社長以外はみな同じで、社長は何か違うと思って、なるのなら社長かなと。戦後の復興から急成長時代をつくった当時の社長さんたちは本当に格好良かったんですね。

その後、周りが就職活動をする頃には、自分はすでに寄付金集めでいろんな会社を回ってしまっていました。そして就職せずにもう少し勉強したいなと思っていたところ、奨学金でオーストラリアのシドニー大学の大学院に行けることが決まりました。そんな卒業前の大学4年の時に、ジェームス・C・アベグレンさんとの出会いがありました。日本のボストンコンサルティンググループ(BCG)の設立に来日されていた頃で、彼の著書『日本の経営』(ダイヤモンド社、1958年)の10年後の日本についてサーベイを実施していて、アルバイトでその集計を任されたんです。しっかりと本を読まないと集計の意味もわからないので、何回も読みました。終身雇用・年功序列・企業内労働組合など、後に日本的経営の「三種の神器」と呼ばれた日本の経営の特徴について理解を深めました。このBCGの前身でのアルバイト経験を通じて外資系企業への魅力も感じましたが、当時は日本企業の勢いがすごかったし、偉大な日本の経営者にもたくさんお会いしていたこともあって、日本の会社がいいなと思っていました。そして、大学院に留学してシドニーにいた時に、大学の恩師でもあった日本精工(NSK)の専務をされていた小島慶三さんにお会いしたら「オーストラリアに工場を造るのを手伝ってくれないか」という話になって、それでNSKに入社することになりました。

NSKに入ると、今里廣記さんというとても魅力的な社長もいらして、やっぱり社長になろうという思いが強くなりましたが、働き始めてから徐々に日本の会社では難しいと思うようになっていきました。日本の組織はすごく団結していて生産性も高いし、特に1970年代当時は実際にパフォーマンスもすばらしかったんですけれど、年功序列ですから、社長になりたいという思いと現実との間での苦悩の10年間でした。そして、私を誘ってくださった小島さんが芙蓉石油開発の社長として転出された頃、NSKのOBからの誘いもあってベンチャーに移りました。ちょうど第1次ベンチャーブームの頃です。結果的にその会社は10カ月で倒産してしまい、連帯保証していたこともあって600坪の土地と家3軒を失いました。大学の1年先輩で、日本ケンタッキー・フライド・チキン(日本KFC)の副社長だった大河原毅さんに相談に行き、結果的には日本KFCでお世話になることになったんです。35歳で田園調布のお店でのアルバイト、時給600円からの再スタートでした。いったん社長になる夢も壊れたんですけど、当時副社長でその後すぐ社長になられた大河原さんをそばで見ていて、「自分にもできるかもしれない、やはりやりたい」と思って、もう1回社長になることを決めたんです。

日々の鍛錬 
〜学生時代からの英語と行動力を礎に、ピープルズスキルと戦略立案を経験から学ぶ

― 「やはり社長になりたい、なれるかもしれない」と思った後に、何らかの鍛錬を始めたことや、その前から意識してやっていたことはありますか?

まずは「英語」です。2つ理由があって、1つ目としては便利だからです。大学1年の時、東京オリンピックの外国人選手たちを新宿御苑で行われた閉会式の後のパーティー会場へ送るバスに乗って、英語でガイドをするアルバイトをやったんです。これがきっかけになって英語をちょっと話せるようになったらもう楽しくて。話せるとこんなに人生違うのかと思ったものです。もう1つの理由は、英語の裏にある論理に対する魅力ですね。当時の上智大学の教授陣の半分ぐらいが海外からのイエズス会士でした。例えば宗教学や哲学などを教えていて、あまり日本語がうまくないがゆえに克明に説明するわけですよ。彼らにしてみればずっとそういうロジックに慣れ親しんでいるわけなんですが、それがすごく快感でした。「英語は楽しい」というのと「英語で考えることは日本語で考えるのと違うな」という気づきがありました。それで論理的な本がすごく好きになって、大学では経済学部ということもあってシュンペーターの本を読み漁ったんですね。そこで見つけたのが「企業家」による「新結合」の生み出す「イノベーション」とか、「創造的破壊過程」を作る「企業家精神」とかで、これにはドキドキ、ワクワクしました。英語ができればそういう世界に入っていけるんだ、これは面白いなと。英語は意識して努力してきたことの1つです。

もう1つは「まず行動する、行動から学ぶ」ということです。大学時代にオーストラリアとの学生交換の資金集めのために東京中を歩き回った時に、政界と経済界のパワーバランスというか、構造について感覚的に知ることができました。「行動から学ぶ、足で学ぶ」というのでしょうか。どうしようかなと思った時にすぐ行動に移さないと、お金が集まらないんですよ。お金が集まらないとオーストラリアに行けない、それではこんな苦労して、何をやっているのかわからなくなりますよね。やり始めたからには最後まで資金集めをしていこうと思いました。だから「気になったらすぐ電話する」とか「すぐ手紙を書く」とか、それまでは「どうしようかな」と放っておいたようなことも、「それをやらなかったら夢が実現しない、やろう」と思ってやりました。後にナイキが言うところの「JUST DO IT.」ですね。それがすごく良いことだと思ったというか、そうしないと生きていけないというか、これが2つ目の学びだったんですね。今でも、結構じくじくした時には自分を律してとにかく行動に移すとか、物事をとにかく前に進める、とにかくやってみるというようにしています。

― 先程、日本KFCで再び経営者になることを考え始めたというお話で、実際に在籍時代に経営層になられていますが、その頃に意識していたことはありますか?

先程お話しした大河原さんは1号店の店長からのたたきあげの方で、出資した三菱商事もあきらめかけていた事業を再生させたんです。面白いのは、大河原さんは大日本印刷出身ですが、他の人たちは大企業を途中で挫折して店に入ったというような人が多かったんです。みんな個性的だけれど1回どこかで挫折した経験をしていて、しかも事業自体もコンセプトで1回失敗していますから、そのエネルギーがあの会社を大きくしたんだろうなと思います。そういう環境で、私の人生も変わったんですよね。

日本KFCには2年間のペプシへの出向を含めて約14年間在籍しましたが、そこで何を学んだかというと、「人は理屈では動かない」ということです。それまでは先程お話ししたような「論理と行動力とで自分でがんばれば」と思ってやってきたのですが、レストランビジネスをやっていくには自分1人ではできないじゃないですか。1店でだいたい60人のアルバイトが必要ですし、社員も3人から4人いるわけですよね。そして、シフトもあります。つまり、自分が店で朝から晩までがんばって、開店している365日の全部にシフトインするなんてことはできないから、結局人に任せないといけない。システムと情やHeartがうまく結び付かないとだめなんですよね。論理と感情をうまくミックスしてある方向性にもっていくという技術が必要になるんです。いわゆるピープルズスキルです。

カーネル・サンダースが89歳の時、亡くなる半年前ぐらいに来日したんですけれど、その時にもう車椅子で、コンベンションで私が脇にいたら、彼のところにみんながワッと握手に来たんですね。焦ってこれはまずいなと思っていたら、自分でどんどん握手していくんです。すごいなと思っていたら「ピープルビジネスなんだから、この握手の一つひとつができなくてはお金は儲からない。大事なのは彼らが喜んで働くような状況をおまえが作ってやること。それがこのビジネスの根幹なんだ」と言われました。これはその後のキャリアで、社長をやるうえで、いちばん大事なフォーミュラ(処方)だったと思いますね。

― 良いタイミングで良い方々にお会いになれたのですね。

マーケティングや戦略プランニングに関しても同様のことがありました。当時KFCは度々買収されて、私のいた間にも4回ぐらい親会社が変わったんですね。親会社が変わると私たちマネジメントチームはそのたびにアメリカに行って戦略についてプレゼンテーションするんです。相手がどんどん変わっていくんですけれど、ふと気が付いたら全部同じフォーマットだったんです。私が最初にトレーニングを受けたのは元GEの人からだったんですけれど、その後、出向していたペプシもマッキンゼー、P&G出身の人たちや、MBAホルダーが多かったので、いわゆるcommon language(共通言語)があるんですよね。プレゼンテーション1つ作るにも、彼らが好むものと好まないものがはっきりあって、字が多すぎちゃだめとか、要点は何だとか、そういうことをしないと通らないんですよね。

このように、ピープルズスキル、マーケティング、戦略プランニングなど、その後の社長業をしていくうえでの基礎は日本KFCの時に鍛えられたんです。マーケティング本部長時代に、オーストラリアの留学時代の友達から「ペプシの日本法人の副社長を探しているからやらない?」という連絡が来たのですがお断りしていました。そうしたら、その後に会社がペプシに買収されてしまって、社長のロジャー・エンリコにも会って、結果的に2年間出向して日本ペプシ・コーラの副社長をやりました。日本KFCでマーケティングの“いろは”を勉強しましたけれど、ペプシでの経験は、マイケル・ジャクソンの起用をはじめ、なかなかすごいものでした。出向から戻って、最後は計1050店の時の常務営業統括だったんですけれど、49社のフランチャイジーと自社とで運営する1050店のマネジメントというのは大変な仕事でしたが、経営全般の勉強できて、社長になる話が来たらそろそろなってみようかなと思っていました。

― そして、ナイキジャパンの社長になられるわけですね。

ヘッドハンターから声をかけられ、創業社長のフィル・ナイトにも気に入られて、ナイキジャパンの社長をやることになりました。最初の4カ月はポートランドのワールドキャンパスという本社で過ごしました。ノースモーキングで、スポーツをいつでもどこでもいくらでもやっていい会社だったんです。キャンパス内は74エーカー(約9万坪)あってすごく広いですから、ジョギングコースをひと回りするのに50分ぐらい、ちょうど皇居を1周するような感じだったんですね。仕事の途中で突然ランニングシューズ履いて走って、いっぱい汗をかいて会議に出ても平気なんですよ。そういう雰囲気でした。日本も当時ジョギングブームだったので、私も日本KFC時代から走ってはいました。帰国してからは、社員のみんなで禁煙してジョギングもして、12月になったらホノルル・マラソンに出ようと言って、結局フルマラソンを完走してしまったんです。2つ良かったことがありました。身体の調子が良くなっただけではなくて、実際やってみるとアスリートの気持ちがわかるじゃないですか。やっぱり「JUST DO IT.」でね。そういう精神がないとナイキではマネジメントできなかったですね。仕事のうえでもそれを学ぶことになりました。

主観的業績
〜「朝起きたらすぐ行きたくなる会社にする」をテーマに

― これまでの仕事の中で最も自慢できる業績は何ですか?

振り返ると、日本KFCは学びの時期だったんですね。マーケティング本部長や営業そして経営戦略担当の常務として大河原さんという偉大なリーダーのもとでいろいろ勉強させていただいたり、世界に名だたる企業である株主に対してのプレゼンテーションなども経験できたりしました。特にペプシ・コーラはeye-opening(啓発的)の経験ですね。日本KFCに続くナイキは私にとって社長職1回目で、その後11年やったゲランの社長職が本当の意味での自分のマネジメント経験だったなと思います。

ゲランに行くことを決めた当時、他に候補が5社あったんです。アメリカのメジャーなIT関連の会社のオファーもあって金銭的にはそちらのほうが良かったんですけれど、ヨーロッパの会社の老舗を立て直すのは面白いと思いました。極め付きは、私を説得したゲラン本社の社長が「ゲランというのは骨董屋の奥のほうにほこりまみれになっている骨董品みたいなもので、表に持ってきてまずはほこりをはらってよく磨いてちょっと直すとすごくすばらしい、そういうブランドだ。それをやらないか?」と言ったんですよ。彼はユニリーバの有名な戦略担当ディレクターだった人ということもあってすごく気が合って、その話に乗ってしまって、結局やらせていただくことになりました。

それまでに戦略プランニングはたくさんやってきましたが、結局ゲランの売上を左右するのは現場の美容部員さんたちです。化粧品についてはよくわかりませんから、徹底的に社員から学ぶしかないだろうなと思いました。まず社長として会社に行くと、バリュー、ビジョン、ミッションステートメントや、それに対するアクションプランなどを作りますよね。それをはっきりするのが大事だとそれまでも言ってきましたが、美容部員さんたちにすぐわかってもらえるものは何かを考えて、こういう話をしました。「この会社に来て1つやりたいことがあります。それは皆さんが朝起きた時に行きたくてしょうがなくなるような会社、そういう会社にこの会社をしたいんです。」と。「朝起きたらすぐ行きたくなる会社」これが私のテーマであると話しました。変なことを言う社長だなという反応でした。これを11年間言い続けたんです。

現場の美容部員さんたちは1年間に28%ぐらい入れ替わってしまうので、バリューについては新入社員の時にバシッと伝えなくてはだめなんですよね。それは「3つの愛」にしました。「この3つの愛がわが社の基本的な価値観なので、違和感のある人は辞めていいですよ」というのが新入社員に対する私の最初のスピーチだったんですね。1つ目は、ブランドを愛しなさい。製品を試してみていやだったら辞めていいよ、やらないほうがいい。好きになったらやりなさい。ブランドの伝統や価値を正しく理解して製品を愛しなさいと。2つ目の愛はお客様を美しくすること。自分たちがアドバイスをしてお客様がきれいになっていくプロセスや、それを評価してお客様が喜んでくれる仕事を愛しなさい。3つ目は人を愛しなさい。お客様もそうですけれど仲間も愛しなさいと。

あとは、マーケティングは徹底的に奇想天外なことをやる、しかも中長期で物を見てやる、ということで、これも最初に3つ考えていました。1つ目はスキンケアで大ヒット製品を作る、2つ目は香水を売れるようにする、3つ目はエステのビジネスをしっかり拡大する、です。10年経って全体で売上が倍になったし、私が退任する時にこの3つをパリから来た社長が評価してくれて、時価7桁半ば相当の永久時計をくれました。これには私も感動しました。私の在職中にパリでは社長が3人変わったんですけれど、本社のエグゼクティブ・コミッティーのメンバーにもしてくれて、日本の意見が世界に取り入れられるなど、そういうふうになっていきました。また、LVMHグループにはルイ・ヴィトンやクリスチャン・ディオールなど日本に14人の社長がいて親しくさせていただきました。60を超すブランドがあり、グループのシャトー・イケムのシャトーに行ったり、おりに触れてArt de vivreといいますか、フランスの良い物の真髄みたいなものにどんどん接することができるわけです。あれはいちばんうれしかったですね。11年間、本当に楽しかったです。

― ゲランでいろいろチャレンジされていく中で、失敗はありましたか?

大きな失敗はありませんでした。外資の特に社長職の怖さは失敗したら即クビですから、逆に言うと絶対間違いはおかせないという、隙のない緊張感のある毎日でした。

失敗があるとすれば、何人かの優秀な部下を辞めさせてしまったというのがあります。私は常に現場の味方になっていたんですが。美容部員の目線でしか見てはいけないと、美容部員が言っていることはお客様が言っていることで、それが第1であると。だから組織図が逆で、お客様がいて、美容部員がいて、担当がいて、部長がいて、社長がいるんだと。そうすると、そういうのに怒ってしまうディレクターもいるんですよね。「秋元さんはとんでもない」ということを言う人がいてそれが軋轢になって辞めた人もいました。

それから日本人の後継者を育てられなかったことがもう1つ残念なことです。私は60歳ちょっとで辞めたんですけれど、その時の本社の社長は37歳のフランス人で、私の後は20歳ぐらい若い40代の人を指名して来てもらいました。その後悔もあって本を書きました(『一流の人たちがやっているシンプルな習慣』フォレスト出版、2010年5月出版)。「W・A・C・C(Will、Act、Create、Communication)」という4つのポイントをきちんとやっていれば社長になれるかもしれないという本です(内容については後述「理想の経営者」)。

最も大きな経営判断
〜組織の質的転換を図るために着任2年目で店舗数削減

― 最も大きい経営判断は何ですか?

ゲランで約80店舗のうち収益性やロケーションに問題のあった14店舗を閉めたんですけれど、それに伴って人を減らしました。店舗数削減によって収益構造がものすごく改善されて、その後は逆に足腰が強くなったので良かったんですけれど、その時がいちばんつらかったですね。しかも、会社に入って2年目ぐらいのことでしたので。検討して実際実施したのは3年目でしょうか。1、2年の間に何ができるか、その辺が社長業で大変なところです。いろんなデータも見て、社員の意見も聞きましたけれど、最後は自分で決めました。LVMHが買収した2年目ですから、他の国では店舗数を半減させたようなところもありました。ヨーロッパの企業だったので2、3年かかったんですけれど、アメリカの企業だったら数カ月ですね。夢を語り将来のためにはこれが必要なんだ、これによって会社が強くなるんだから、と社員を説得してまわりました。14店舗の店長と数人ずつですから40人ぐらい辞めていただくことになりました。350人の会社の40人で10%強ですから結構きつかったです。

― 判断のよりどころとしては収益性が大きかったのでしょうか。

「社員にとって朝起きたら行きたくなる会社かどうか」というのがいちばん大きいです。収益云々はもちろんそうなんですけれど、それは数値を見ていればわかることです。そればかりで経営するなら楽なことで、数字はあたりまえ、連続して質的な転換を起こす必要があるのです。毎日細胞が生まれ変わるみたいにリフレッシュしていかないといけません。細胞というのは社員一人ひとりの気持ちも含めてですが、それがリフレッシュしてない限り組織能力が減じていく。それがいちばん心配なことです。勢いが陰ってくるとつらいです。私自身も10年目を迎えた頃になって、これ以上ふんばるのはしんどいと思うようになりました。10年やっているとどうしてもマンネリになるんですよね。自分でまた同じこと言っているなと思いながら言うのもつらいものです。60歳過ぎた時に本国の上司に「定年の65歳までいるつもりはないがどうするか」と言ったら「あと2年はいてほしい」ということでしたが1年経って辞めました。次は誰がいいか聞かれたので、先程お話ししたように20歳若い後継者を指名しました。彼が来た後は、電話でアドバイスしたりすることなどはしましたが、全てを任せていっさい出社は控えました。

強み・弱み
〜クリエイティブ・シンキング、行動力、志

― ご自身の強みや弱みをどのようにお考えですか?

強みとしては、クリエイティブ・シンキングや行動力、それらを方向付ける志などでしょうか。クリエイティブな人たちとのつきあいが多かったこともありますが、もともと興味があるんです。音楽、色や形、絵画など興味がありますし、美術館やコンサートに行くのも好きです。

コミュニケーション、これは努力しましたね。現場とのコミュニケーションはすごくとっていました。同僚ともうまくいくんですけれど、部下とのコミュニケーションは非常に神経を使いました。特にアメリカやヨーロッパと日本とではずいぶん違うので。例えば、戦略は日本発であっても、方針はアメリカやヨーロッパの会社が決めて、それを実現するのは日本の組織ですよね。よくあるのは、やっぱり外国人はだめだとか、違うとか、私たちは日本人だからと逃げてしまうとか、そういうあきらめてしまう日本人社員を、どうやったら朝起きたら会社に行きたくなるような、そういう気持ちにしてあげられるか、カルチャー・ギャップを人の心のレベルまで埋めるのはすごく難しいです。戦略面は強かったけれどピープルズスキルは今でも勉強すべきだと思っています。時々我慢できなくなって本音を言ってしまうとか、怒ってしまうとか、何回か失敗しましたね。だから、我慢してできるだけ社員の話を聞くなど努力しました。

社長になってピープルズスキルは本当に難しいなと思いました。周りを見ていて外資の日本人社長が躓きやすいのは、このピープルズスキルですね。これは日本社会の問題だと思っています。日本社会はどこか封建的なところがあって、例えば「社長!」というのは「殿!」というのと同じですよね。同じエレベーターには乗らないとかね。社長になったら傲慢になってしまう人も非常に多いです。もっと言うと、人の痛みがわからない。そういう人って尊敬されないんです。君主であっても民の心から離れたらだいたい失脚するんですね。欧米ではリーダーシップがどういうことかを学んでいて“民衆とともに”といったスタンスでのコミュニケーションの仕方がうまい。民衆を熱狂させるようなスピーチがうまいのです。それがリーダーシップの素養ですよね。日本の問題はマーケティングにも言えることなんですけど、組織論もマーケティングも人に関しても権威主義的な考え方がどこか残っていて、これがやっぱりだめなんだろうと思うんですよ。私自身はそれがいちばん学びになりました。特に11年もいたゲランでは楽しかったですね、チームの心が1つになるのがわかって、売上もそしてもちろん利益もしっかり上がるわけですよ。これは快感でしたね。

理想の経営者
〜名だたるグローバル企業の経営者と身近に接して

― 名だたるグローバル企業の創業者、経営者と仕事をされてきた秋元さんですが、理想の経営者を挙げるとしたらどなたですか?

KFCのカーネル・サンダース、ペプシのロジャー・エンリコ、ナイキのフィル・ナイト、LVMHのベルナール・アルノー、いずれもそうですが、私が最近の書籍で挙げたのはフィル・ナイトとベルナール・アルノーです。尊敬しているというよりもすごいなと思いました。2人とも事業が彼らそのもの、事業展開が何の妥協もなく自分の表現そのものなんです。例えばナイキのアスリートのスポンサー契約はフィルが全部自分で決めてしまう。アルノーのブランドの買収もそうです。もちろん数字もありますが、一連の意思決定は彼自身が赴く現場がベースにあります。2人とも直感で決めるんです。フィルの場合はナイキのスピリットを具現するような反骨精神のある選手かどうかで、会って気に入ればサインしてしまいます。彼はいつも「Breaking rules」と言っていて、やんちゃだったけれどすごく厳しい人でした。本音で話せって言うからそうしたらクビになってしまった人もいましたし、クビにしておいてまた帰ってこないかと声をかけるような、そういう人なんです。2人とも理想的ではないけれど、ひらめき経営なんですよね。いわゆる良い人でもない。でもすごい痛快だった。会うとワクワクして、そのたびに驚かされるというか、すごいなと思いました。

― 秋元さんがお考えになる経営者の条件というのは、どういうものでしょうか?

先程(「主観的業績」)お話ししました書籍『一流の人たちがやっているシンプルな習慣』の4つのポイント「W・A・C・C(Will、Act、Create、Communication)」がそれにあたります。

まず「Will to live with vision」で、志、正義感、勇気といった精神力が第1です。志というのはグローバルな志、世界中の人に語って世界中の人がそうだ、それはすごいなと言うような志です。グローバルに通用する志をもつこと、それを勇気をもってサポートするような勇気をもつこと、それが1つ目です。

2つ目は「Act to win」で行動力。近年では危険なことをやってはいけないとか、汚いものを触ってはいけないとか、社会や親が過保護になっています。あえて言いますけれど、ペプシの時の上司であった社長はグリーンベレーだったんです。ベトナム戦争の修羅場の中で生き残った人がマネジメントをやっているわけです。グローバルにビジネスをしていると、このような相手によく遭遇するんですね。かなりの意思・勇気と行動力がないと生き残れないわけで、そういう相手と一緒に走っていくことが必要な時に、スピード、思考、行動についていけないのは問題外になってしまいます。

3つ目は「Create aggressively」で発想力。日本の経営がいちばん弱いのがこれだと思います。「think out of the box」という表現もありますが、そういう発想を嫌うし規制する会社も多いですよね。だいたい人の輪からはみ出してしまっている人は創造的な人が多いと思うんです。クリスチャン・ディオールのジョン・ガリアーノのようなデザイナーが普通の会社でサラリーマンとして出世するとは思いませんね。ただクリエイションの世界で彼ほどの天才はいないわけで、それを認める社会というのがある。クリエイティビティというのはシュンペーターが言ったとおり創造的破壊で不連続なものなので、人がやっていることをまねて過去の延長線上に未来があるという発想の人には無理です。現状をひっくり返して新しく考えるという発想がないとできない。これは必須条件です。

最後は「Communication 360°」でコミュニケーション力です。上司・部下・同僚含めて360度の、英語力も含めて論理的なコミュニケーションです。順番はこのW・A・C・Cだと思っています。

経営者の条件については、テクニカルなセミナーや本も多いけれど、読めば読むほど、ゴルフの本をいっぱい読んだらゴルフがわからなくなってしまうのと同じように、混乱してしまう気がしています。自分で仕事を辞めて世界放浪の旅に出たほうがよほど学ぶものがあるのではないかと思うくらいで、今の世の中がテクニカルに走って小物になっていることを危惧しています。世界中の人がワクワクするような志を掲げて世界中の仲間を集ってやった結果として経営者になったり創業者になったり、そういう時代が来たらいいなと思っています。

― 経営者というのは育てられるものだとお考えですか?

資質とチャンスが必要だと思います。ただ、チャンスは与えることができるし、資質も伸ばすような教育もできるけれど、結局は本人次第ですよね。チャンスもつくるものと考えれば、やはりいちばん大事なのは本人の意思です。私はこれからも「W・A・C・C」の各要素を一人ひとり確認して、そういう資質がある人に刺激を与えて、グローバルなリーダー人材として世に送り出していきたいと思っています。グローバルな環境の中で勝ち残るリーダーとしての自覚がない限り、どんなにアカウンタビリティーや専門知識があろうと、これからの時代の成功は望めないと思います。

インタビューを終えて

秋元さんのお話を伺うと、ビジネスの現場での経験を通じて、グローバル・スタンダードでの経営者としてのスキル、マインドを培ってこられたことがわかりますが、ポイント、ポイントでの、すばらしい出会いによって、影響を受けたり、ご自身の意思を強固なものにしたりしてこられたようでした。大学時代の日本優良企業の社長たち、アベグレン氏、日本KFCの大河原氏、カーネル・サンダース、ロジャー・エンリコ、フィル・ナイト、ベルナール・アルノー。これだけの顔ぶれの経営者たちと一緒に仕事をする機会をもつことは並大抵のことではないですが、百聞は一見にしかず、これはという経営者のもとで仕事をすることは大きな学びになることは間違いないことでしょう。そして、秋元さんの持論「W・A・C・C」「起きたらすぐ行きたくなる会社にする」いずれも深く考えさせられる言葉で、経営者になる方、育てる方にとって示唆に富んだお話であったと思います。

インタビュー:組織行動研究所所長 古野庸一 /文:主任研究員 藤村直子
協力:株式会社 経営者JP 代表取締役社長・CEO 井上 和幸 氏
※本インタビューは2010年10月7日に実施したものです。

PROFILE

秋元 征紘(あきもと ゆきひろ)氏 ワイ・エイ・パートナーズ株式会社 代表取締役

1944年生まれ。上智大学経済学部卒業、シドニー大学経済学部修士課程。1970年日本精工入社。ニューヨーク、トロント駐在を経て、1980年日本ケンタッキー・フライド・チキン(日本KFC)に入社。その後、同社マーケティング本部長、日本ペプシ・コーラ副社長、日本KFC常務取締役、ナイキジャパン代表取締役社長、LVMHグループのゲラン代表取締役社長、同取締役会長、ゲランSA(パリ本社)執行役員と、欧米企業日本法人のトップを歴任。2006年ワイ・エイ・パートナーズ設立、代表取締役に就任。2008年ジャイロ経営塾を設立。著書に『一流の人たちがやっているシンプルな習慣』『こうして私は外資4社のトップになった』『「ジャイロ経営」が社員のやる気に火をつける パッション・カンパニー』などがある。

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