「プロ経営者」の育ち方・育て方 第4回 アメリカ本社での5年間の経験が経営観の礎に 村上 憲郎氏

執筆者情報
組織行動研究所
所長
古野 庸一
執筆者情報
組織行動研究所
主任研究員
藤村 直子

このシリーズでは「プロ経営者」の育ち方・育て方への示唆を得るために、複数企業で経営者としての実績をあげた社長へのインタビューを行っています。今回はその第4回として、DEC日本法人取締役、インフォミックス米国本社副社長兼日本法人社長、ノーテルネットワーク日本法人社長、ドーセントジャパン日本法人社長、グーグル米国本社副社長兼日本法人社長および名誉会長を歴任された村上憲郎氏にお話を伺いました。


経営者になる覚悟
〜エンジニアからのキャリア転換

― 経営者になることを決めたのは、いつ頃、どのような場面でのことでしたか?

大学卒業後に日立電子に入社してエンジニアとしてキャリアをスタートしたわけですが、1978年に日本DECに転職した時に職種別採用でセールスを選びました。「男を磨くのはセールスだ」という本を読んで、というのもありましたが、「人間の幅を広げたい」という思いがあって。その際「将来経営全般を担う立場に立ちたい」と全く思わなかったかと言えば嘘になるでしょう。その時には社長という具体的なタイトルまでは思い浮かべていませんでしたが、トップかどうかは別にして、マネジメントという形で自分の能力を広げる必要性を感じていたのは事実ですね。覚悟していたかどうかで言うと違うかもしれませんが。

― その後、日本DECで取締役になられたというステップの中で、自分は経営者になるんだなと感じることがあったのですか?

まず、アメリカの本社から誘いがあった時に、不遜な言い方をすると「もう日本DECで学ぶことはないな」と思っていたわけですよ。DECに入社して7年目くらい経った頃でしょうか。外資に入って英語もそこそこできるようになって、セールスもマーケティングもやり、大きなコンピュータ・プロジェクトにも携わり、人工知能という本来やりたかったテーマもやれて、もう学ぶことはない、あとはアメリカで仕事してみることくらいかと思い、本社に行くことを決めたんです。

マネジメント職に就いてからも言い続けていることなのですが、社員には「この会社からお給金だけをもらっていてはだめですよ、この会社を踏み台にしなさい」という話をします。次の飛躍のための跳び箱の飛び台ですね。お給金以上のものを吸収していきなさい、と。なぜかと言えば、自分がそうしてきたからです。私は常日頃、自分がどうしてきたかということしか言いません。人様にこうしたほうがよいと言うのは僭越だと思うんです。私はこうしてきたという話をして、参考になるなら参考にしていただけばよいと。ですから、当時DECから給金以上のものであと何をもらえるかと考えた時に、アメリカ本社における就業経験だったわけです。

アメリカに5年間いて、グリーンカードをとるから残ってほしいと言われました。アメリカの会社は年齢を気にしませんが、40歳を超えていましたから、この歳でMBAをもっていなくてアメリカの会社でラダーを昇るのはつらい。正直言って英語もあい変わらず下手だ。では自分の取り柄は何なのか考えた時に、日米の懸け橋になるということ、バイリンガルとして日本法人のマネジメントをすることを選びました。その時には、あわよくばDECジャパンの社長に、という欲は出ていたかもしれません。DEC本社としては残ってほしいということでしたが、このまま行ってもこんなところかな、と先が見えていて、日本に帰れば取締役だと。その頃から単なるマネジメントでなく、トップマネジメントが意識に上がったのではないでしょうか。

― 村上さんの中では、技術者としての志向と経営志向というのは、どのような関係にあるのですか?

経営するにしても、たとえば生保の社長をやれと言われてもできません。モチベーションがわかないですから。どこかに、「どうせ死ぬんだ」という考えがあって、これはポジティブな意味ですけれど、自分の人生が有限なものだとした時に、生きてよかったと思うには「何億円蓄財しました」とか「大きな会社の社長をやりました」ということより「自分がやりたかったことを基本的に離れずに持続してやれる範囲で社長をやる」ということなしではいられないんです。自分のわがままですね。

エンジニアとしては、大学でコンピュータ・サイエンスを自学自習で学んだけれど、しっかり学んだというわけではありませんでした。また、70年代まで日本のコンピュータ・サイエンスはアメリカのコピーという面もあって、どうも自分はこの道では一流ではない、という思いもありました。日立電子時代も誰も教えてくれる人がいないから、海外の論文を読みながら見よう見まねでやっていたので、エンジニアという意味合いにおいてのタレント(才能)は偽物だぞというのがあったんです。映画の「2001年宇宙の旅」の衝撃的なイメージがきっかけで人工知能に興味をもって、夢としては手離せないというのはありましたけれど。

日々の鍛錬
〜森羅万象を知り尽くしたい

― 日々の鍛錬と言いますか、習慣としてはどのようなものがありますか?

上昇志向の表われだと思いますけれど「とにかく森羅万象を知り尽くしたい」という欲求があるんです。 会社に入ると「会社って何?」って思うわけです。日立電子での最初の研修講義は工業簿記だったんですね。エンジニアに対して、ですよ。日立は本当にいい勉強のチャンス、刺激を与えてくれたと思います。その時にわからないと思ったら薄い本で調べて、大づかみにこれはどういうことだというのを必ず手に入れていくのが特技で、いまだにやっていることです。知らないことがあったら調べて、話題になっていることはだいたいわかるようにしています。

これをやるのとやらないのとでは、1日1項目として1年365項目、10年経つと3650項目ほど違ってくる。10年くらい経つと差が出てきます。仕事に関することだけでないですね。細部にこだわらず「大枠つまりはこういうことだな」という大きな枠組みさえ手に入れていれば「これはこのあたりの話で、この話は世界のどのあたりに関係のある話か」というのがわかります。これを私は「知の枠組み」という意味で「フレーム・オブ・リファレンス」(frame of reference)」と呼んでいます。

よく言われるような人脈づくりは、性格的に嫌です。それって相手を手段として見ているわけじゃないですか。相手は目的でないと。後で役立つかもしれないから名刺交換しておこうというのは、手段として見ているんだと思います。そういう人脈づくりは好きではありません。経営者として必要とされることもあるかもしれませんから、そのあたりで、自分はプロ経営者じゃないと思うんですよ。

主観的業績
〜米国本社勤務のきっかけにもなった新規事業開発経験

― これまでの経験の中で、ご自身で自慢できるような主観的な業績、成果を挙げるとしたらどのようなものですか?

一つはDEC時代の第五世代コンピュータ・プロジェクトですね。日本で通産省電子技術総合研究所(現在の産業技術総合研究所)が中心になってNTTと日本のコンピュータメーカで人工知能を創るというものでした。アメリカでは当時、人工知能研究はDECのマシーンの上にしかなかったんです。MIT、カーネギーメロンなど名だたる大学での人工知能をサポートしているのは全てDECのマシーンでした。商用の本にはあまり出てこない話ですが、アメリカの国家戦略として推進されていたことなんです。日本もその流れを感じ取って第五世代コンピュータ・プロジェクトを始めました。それに必要なDECマシーンを日本でほとんど私が売ったんです。その後、日本でビジネス系に応用したものを売りました。日本DECでは、銀行などの文科系にコンピュータを入れるのは夢のまた夢だったんですね。理科系のコンピュータだと思われていたものが文科系にも使える、人工知能はビジネスにならないと思われていたのを日本でアプリで売っている人間がいるというので、アメリカでも話題になったそうです。

― それがアメリカ本社での経験のきっかけにもなる業績だったのですね。

日本経済新聞に「ミスターAI、DEC本社に栄転」なんて記事が出たくらいなんですよ。チョット面映い自慢でしょうか。色々な意味で転機になっています。アメリカでの5年間は、自分の世界観、人生観の面で生まれ変わったような経験でしたので。

― このような業績を支えた、ご自身としての強み・弱みは何ですか?

強みは「50%できる」と言うことです。同じ状況でも「50%できません」という人がいます。昔から私は脳天気だったんですね。よくあるたとえ話で、アフリカでは靴を履いている人がいないから靴は売れないと思うのか、それだけ売れる機会があると思うのか。私の場合は後者なんです。弱みは、どこかで世の中を斜に見ていることでしょうか。斜に見ているというのは、別にかまえているわけではなくて、メインストリートを行ってない、異端だな、主流派じゃないなと思うからです。

― 斜に見ているというのは、昔からですか?

大学時代の学生運動での経験も影響しているかもしれません。物事からいつもある種の距離を置いています。よく会社にいれあげる人がいるけれど、いつもどんな会社でも距離を置いて見ています。社員にも大きな声で言うことではないですが、あまり会社に思い入れを持ち過ぎないようにと話しています。会社はあなたの思い入れに応えられないよと。結婚式の誓いの言葉のように「死が二人を分かつまで」と誓ったとしてもそうならないこともある。思い入れることもかまいませんが、嘘をついてはだめです。

― お話を伺っていると、何でも知りつくしたいという学習意欲、好奇心、ある種の上昇志向も強みとしてあるのでしょうか?

団塊の世代の異様なハングリー精神と言いますか、上昇志向はとても強いです。転んでもただでは起きないというか、失敗からも何かをつかみとるぞみたいな貪欲さはありますね。

弱みの「斜にかまえている」というのは、見方を変えれば、損切りがうまいとも言えます。サンクコストは気にしない。公私どちらもそうです。

大きな経営判断
〜外資日本法人社長としてのリストラのタイミング

― これまで行った大きな経営判断はどのようなものでしたか?

あえて言うと、インフォミックスもノーザンテレコムも最後はリストラになるわけですよね。アメリカ本社からの意向でリストラを受け入れる時は、日本法人にとって私がどういう役回りになるかというと、労働組合の委員長みたいになるんです。たとえば、アメリカ本社から「3ヶ月分くらい出せばいいんだろう」と言ってくるのを、「それだと係争関係になりますから」と、「日本は正社員を解雇できないんだから」というのを顧問弁護士に言わせたりします。「通常の会社都合の退職金規定プラス1年分」と言って、それはちょっととなると、「ではプラス7カ月分」というような交渉役になるわけです。社員に困難を強いるわけですから、できるだけ手厚くしたい。リストラに関しては「そういう時に来たな」と感じたら、社員に支払う体力があるうちに、落とし所を決めて、決断は早くやります。終戦処理が最後の仕事で、それが一段落したら自分が辞表を出すという覚悟でいなくてはいけないのが、外資の日本法人社長の役目だと思って私はやってきました。

DECでアメリカから日本に帰って来て、とたんにそれが起きました。当時、IBMとDECは家族経営でそういうことはしないと公言していた時代に、その2社がやることになるんですね。取締役という立場でしたから、当時としては破格なものを社員には出しました。昔からの同僚には「のりちゃん取締役なんかになるからすごいパッケージもらえなくなるんだ」って言われたくらいです。日本に帰って来た時には、こういうことがあることを覚悟していました。リストラはしないと言っていた会社の取締役でそれをしたということで、責任をとって辞表を出しました。

次にインフォミックスで最初の社長職というポジションになった時には、社員には始めからこう話しました。「終身雇用は保証できません。私の役割は、あなたたちが終身雇用される能力をこの会社で身につけるのをお手伝いすることです。だからお給金だけもらっていてはだめですよ。ライフタイム・ロング・エンプロイメントはないが、皆さんがライフタイム・ロング・エンプロイアビリティをつけることをお手伝いします」と。コンピューティングの世界というのは、コンピューティングのスタイルが変遷するとリーディングカンパニーが変わっていきます。人も移るわけですよ。この業界はそういうものだと思って、特に外資の経営の決断というのはどの時点でそれが来るか、来た時にはどういうふうにして終戦処理をしっかりとやるか、エネルギーだけ費やす係争にならずに納得できるような処理ができるか、というのをいつも頭の中で考えていなくてはなりません。大きな経営判断というのは、リストラのタイミングとそのやり方ですね。

最も成長した経験
〜自分の中に確固とした価値の軸をもつ

― 村上さんが最も成長された経験は何ですか?

アメリカでの5年間ですね。端的に言うとキリスト教、一神教の人たちの価値観に触れた経験です。日本だと背が高い、年俸が多い、学歴が高いなど、そういうことで人を見てしまうところを、一神教の人たちは、それは二次元平面の地上の王国のことであって、社長、受付、背が高い、高卒、ハーバード大卒というようなことは、神様の前では何もならないというのがどこかにあるのです。アメリカ人全員がそうだとは言いませんが、どこかにそういう宗教的な価値観が存在しているんです。比較するに、自分の中に価値の軸がないままふらふらしていたという感じがして、そういう軸があった上で日常生活を律することの必要性を意識しました。自分に欠落していたものはこれだな、と。それまでも価値の軸はそこはかとなくあったとしても、くっきりと語れるほど自分の中で文章化されていない、自覚されていないということが、アメリカ社会の中で次第に明らかになっていきました。

― そういうことを考えさせられるような、何か特別な場面があったのですか?

個々の場面は思い出せません。ボストンの近郊には、知的水準が高くて、産業革命時代に蓄財した人たちの子孫など、オールドマネーと呼ばれる階層の人たちが住んでいるのですが、家もそんな大屋敷ではなく、でも何か優雅に暮らしている。こういう人たちと付き合っていると、この人たちは何らかの価値の軸をもっているなというのを感じたんですね。

理想の経営者
〜謙虚で技術に思い入れのあるDEC創業社長ケン・オールセン

― 理想の経営者はいますか?

理想というと、会社がつぶれない経営者を思い浮かべがちなので、そういう意味合いでは理想の経営者ではないのかもしれませんが、DEC創業社長のケン・オールセンです。同じ町に住んでいて、大金持ちだったけれど1階、2階とも3部屋ずつくらいの普通の家に住んでいて、私の息子がハロウィーンでケンの家に行って帰って来た時に「パパの会社大丈夫?」と言っていたというような普通の暮らし向きでした。フォードの社外取締役もやっていて、フォードが社用車をくれるんですが、できればもっと大きいのにしてくれとフォード社から言われたくらいの中型車に乗っていました。DECの駐車場はとても広いのですが、社長専用の駐車場はなく、遅く来ると端に停めて歩かなくてはならないんですね。高齢になって社員が心配してオフィスの近くにスペースを用意するまで、本人は専用駐車場を嫌がっていました。日本の記者が彼にインタビューする時の通訳をしていたので近くで接する機会があったのですが、決して威張らない人でした。一方、頑なな面もあった人で、自分たちのつくったVMS(DECのOS)がすばらしいと固執したため、ビジネスでは後れをとって、買収の末に会社は消えてしまったわけですから、理想の経営者ではないのかもしれません。ですが、上に立つ人として、最も尊敬する、自分が学んだ経営者でした。偉そうにしていて、下の人を信用していないからマイクロ・マネジメントをする、ということが頭のよい人にありがちじゃないですか。そういうのと対極の人でした。

― ご自身が経営者になられた後も、影響を受けていますか?

自分もやっぱり技術者なんですよね。細かいことはやらなくなっていますが、技術に対する思い入れや、自分の理想とするコンピューティング・スタイルがあるところなどです。

※ケン・オールセン氏は、このインタビューの後、2011年2月6日、84歳で逝去されました。

インタビューを終えて

「最も成長された時は?」というこちらの質問に対して、村上さんからは「DECの米国本社に勤務していた時」とのお答えでした。「世界観、人生観の面で生まれ変わったような5年間だった」というお話で、宗教的な価値観に触れたことで、生きていくうえで自分として確固とした軸をもつ必要性を感じたとのことです。尊敬する経営者、DEC創業社長ケン・オールセン氏との出会いも同じ頃のことです。偉ぶらずに、テクノロジーへの思い入れのある経営者に身近に接することで、人の上に立つ経営者としての姿勢を学ばれたとのお話でした。元来の上昇志向に加えて、30代後半での5年間が村上さんにとっては経営者としての転機となったようです。

インタビュー当日は、幼少期や学生時代の時のこと、影響を受けた本などについても、いろいろとお伺いさせていただきました。外資系企業複数社で業績を上げ、日本法人のトップマネジメントを行い、シビアな意思決定を重ね、修羅場を経験されてきたからこそ言える深みのある言葉をたくさんいただきました。

インタビュー:組織行動研究所所長 古野庸一 /文:主任研究員 藤村直子
協力:株式会社 経営者JP 代表取締役社長・CEO 井上 和幸 氏
※本インタビューは2010年9月30日に実施したものです。

PROFILE

村上 憲郎(むらかみ のりお)氏 村上憲郎事務所代表

1947年生まれ。1970年京都大学工学部卒業。卒業後日立電子に入社。ミニコンピュータ システムのエンジニアとしてキャリアをスタートした後、1978年日本DECに入社。1986年から5年間米国本社勤務、帰国後1992年に同社取締役に就任。1994年米インフォミックス副社長兼日本法人社長に就任。1998年ノーザンテレコムジャパン(現ノーテルネットワーク)社長兼最高経営責任者に就任。2001年ドーセントジャパンを設立し、社長に就任。2003年4月グーグル米国本社副社長兼日本法人代表取締役社長に就任。2009年1月に名誉会長に就任し、2011年1月1日付で退任、村上憲郎事務所を開設し、現在に至る。著書に『やさしい人工知能―知識ベースシステム入門』『村上式シンプル英語勉強法―使える英語を、本気で身につける』『村上式シンプル仕事術―厳しい時代を生き抜く14の原理原則』がある。

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