「プロ経営者」の育ち方・育て方 第6回 合理的・合目的的な意思決定と人とのつながりを大切に 平松 庚三氏

執筆者情報
組織行動研究所
所長
古野 庸一
執筆者情報
組織行動研究所
主任研究員
藤村 直子

このシリーズでは、「プロ経営者」の育ち方・育て方への示唆を得るために、複数企業で経営者としての実績をあげた社長へのインタビューを行っています。今回はその第6回として、IDGコミュニケーションズ、AOLジャパン、弥生、ライブドアにて社長職を歴任された平松庚三氏にお話を伺いました。


経営者になる覚悟
〜志、縁、機会によって醸成されていった覚悟

― 経営者になることを決めた覚悟について、まずお聞かせいただけますか。

子供の頃から「リーダーになりたい」という思いは強いほうでした。一方で、今でもそうですけれど、60年以上「リーダーになりたい」というのと「リーダーの実力というのが備わっていない」というジレンマに悩んでいました。自分について客観的に見ることができるようになったのはここ10年くらいのことです。50歳くらいになった時に自分の過去を振り返って、あの時はどういう状況だったからどういう選択肢があってどういう決断をしたんだ、というのを見ることができるようになりました。ちょうどその頃から講演依頼も来るようになって、「ソニーをなぜ辞めたのか」という質問が多かったということもあり、「ソニーを逃げた説」というのを後から作ったんです。

ソニーを辞めたのにはいくつか理由がありました。1980年代前半、ソニーはホームコンピュータ事業に参入することになり、初めて8ビットコンピュータを発売する仕事を出井さんのもとでやっていました。ソニーだけでなく松下、東芝、日立なども巻き込んで進めていましたが、当時まだ花札やゲームウォッチしか作っていなかった任天堂のファミコンに負けてしまったんです。そのプロジェクトにずっと何年も没頭していたものですから、会社での自分の存在意義に疑問を感じるようになり、そんな時にヘッドハンターからアメックスに推薦したいと声がかかったというのが1つです。

もう1つは、リーダーにはなりたかったのですが、リーダーになる前にソニーの何万人、世界で何十万人の中でスタメンになるのにはどうしたらよいかと思った時に、当時のことを野球に例えれば、ライトがイチロー、センターが松井、レフトがラミレスだったんです。私も自信はあったけれど、こいつらとやるのか、と思いました。野球の世界でも、天才と言われていても運がなくて、王、長嶋の影でベンチにいたという人はたくさんいるじゃないですか。「なぜもっと頑張らなかったのか」とよく言われるけれど、子供の頃から親や先生の言う「努力すれば何でもできる」、あれは嘘です。努力したってできないこともあるというのが現実です。努力するなとは言っていなくて、身になる努力と無駄な努力というのを見極めなくてはいけないんですよね。

― 当時でいうと35歳くらいですよね。周囲にはそんなに素晴らしい方がいらっしゃったんですか。

皆、係長、課長クラスでしたが、後から振り返るとすごい人たちがいました。昔の副社長でソニーフィナンシャルホールディングスのCEOだった徳中暉久さんや、プレイステーションを作った久夛良木健さんなどです。この人たちにはガチンコでやったらかなわないな、という当時の自分の人を見る目と判断は正しかったと思います。所属も全然違う部門で、一緒に仕事をしたこともなかったけれど、やっぱり目立っていましたから。そういう時にスカウトが来てアメックスに行くことを決めました。だからその時が初めての転職でしたが、アメックスに転職するというのが決断ではなくて、ソニーを辞めるというのが自分にとっては大きな決断でした。

― 努力するかどうかの見極めというのも、とても難しいですよね。

人生はマラソンのようなものだからコツコツと、というのも大切です。でもマラソン選手の場合、全力疾走で2時間ですから、一般人にはたとえ50メートルだけでもかなわない。それと同じです。ただ、どちらかというとそんなかっこいい話ではなくて、逃げたんです。イチロー、松井、ラミレスとのガチンコ勝負を避けたということです。スポーツの世界では多いですけれど、企業でもガチンコ勝負で負けてずっと部長でいるとか子会社の社長になっている人はたくさんいるわけですよね。当時課長でしたが、このままいくと、うまくいって平取か悪くても部長か事業部長くらいだな、と思ったんです。盛田さんの近いところで仕事していたので、辞めるという話をしに行きました。「なんで辞めるんだ」と聞かれたので「つまらないから」と図を書いて説明したんです。自分の人生は今ここで、給料の上昇率がこれくらいだから、40、50歳で年収がこれくらいで、そうすると乗る車や家はこんな感じで、社長にはなれないし、と。「君だってがんばれば・・・」と言われたので「いやそうでなくて、すごいのがいるから、僕の給料のレンジはこんなところじゃないですかね」と。「優秀なやつだけじゃ会社は絶対やっていけないよ」と言われましたが、「それだと面白くない」と答えました。常にお山の大将でいたいし、人から言われたことをやるのは嫌なんです。だから盛田さんにかわいがられていたんでしょうけれど。言いたいことを言える、という意味では、ソニーで働くというのは非常に快適でした。特に盛田さんのそばで働いていたので尚更で、だからソニーを辞めるというのが最初の決断でした。

でもソニーを辞める時点では経営者として行くというのは自分ではそこまでの力はないと思っていましたから、運がよかったんです。盛田さんが「で、どこに行くんだ?」って言うから「アメックスに行くんです」と。「何?俺社外取締役だよ、あそこの」盛田さんがアメリカ本社の社外取締役だったんですね。「それで本当に辞めるんだな」と言うから「サインしちゃいました」と答えたら、「ジム・ロビンソン(当時のアメリカ本社CEO)に今度言っておく」と言って、本当に伝えてくれたんです。あの頃はメールもなかったのでFAXで、CEOから日本法人に「ソニーの盛田と会ったら、コウゾウ・ヒラマツというのが今度チームに入るんだって?それの履歴と詳細を送れ」というのが来ました。それでびっくりしたのがアメリカ人の日本法人社長です。300人くらいの小さな会社でしたから、やっぱりそういうのって社内ですぐ知れ渡って噂になりました。プレッシャーもかかったけれど、すごい援護射撃ですよね。

― 明確に「経営者になろう」と自分の中で決めたのは、アメックスに移られてからですか。

はい、アメックスの時です。ディレクターとして入り、初めて個室と秘書がつきました。当時、「不公平な」人事というのを覚えたんです。社員に話す時にも、「なるべく公平にするけれど、給料が同じというのは不公平でしょ。ただオポチュニティは公平に与えます。だからそれを取る、取らないはあなたの勝手です」と伝えました。後から知りましたが、アメックスの人事では社員が5段階に分かれていて、自分たちはどこに位置づけられているか知らないのですが、最高位の「ハイポテンシャル」に選ばれるとものすごくいろんなオポチュニティが来るわけです。ディレクターは年1回、VPだと年2回海外における研修があります。世界中から12、3人が集められ、リーダーシップ、オーラルコミュニケーション、リスクマネジメントなどの様々な講義を、コロンビア大学、イェール大学、ハーバード大学の教授陣たちが8日間来て教えてくれるんです。2カ月くらい前からフェデックスで課題がどっさり来て、どんどん出さなくてはいけなくて、たとえば「アカプルコのヒルトンのコンファレンスルーム、アミーゴに何月何日の夜7時までに集合」「持ち物はこれとこれ」なんて書いてある。集まると、各自数分で自己紹介して、すぐに研修が始まります。1日10時間くらいやって、宿題も辞書を見たりしながらやるので、8日間で80〜90時間、徹底的にやりました。それも、入社順だから君は来年ね、というのではない。行かない人は1回も行ったことがない。そして、新しいオポチュニティをクリアすると、給料も上がる、ポジションも上がる、ということです。わざと不公平、アンフェアなんて言っていますが、それがフェアなんです。日本だったら考えられないでしょう。今の仕事で成果を上げればそういう研修に行ける、そうすると自分の価値も上がる。他のアメリカの会社でも研修をやりましたが、アメックスほどすごいものはありませんでした。経営とは何かというのを徹底してやりました。

― そうすると、当時、入社してすぐ業績を上げていたのですね。

それも運なんです。最初は広報のディレクターとして入社しました。2、3週間くらい経った頃、ソニー入社当初にニューヨークに赴任していた時の知り合いの日経ニューヨーク支局の人たちが転職祝いをしてくれるということで、赤坂で飲み会を開いてくれました。その時に、オフィシャルな場ではないけれどアメックスの日本のストラテジーについて語れるいい機会だということで日本法人社長も誘って一緒に行ったら、こういうのが広報だとすごく彼も喜びました。次の日に出社したら、社長が私の席に座ってメモを書いているんです。「俺のオフィスの隣に来ない?」と言われて、神谷町から赤坂に移りました。そして、広報だけでなくいろいろなことをやっていたのですが、そのうち日本でも出版事業を立ち上げることになって、それに携わりました。その成功で副社長になりました。副社長(VP)といっても、その時は8人もいましたけれど。事業部長みたいなものです。経営者になろうとはっきり思ったのはその時です。つまりP/L責任を持たされたんです。アメックスにいた6年間で10回以上海外の研修に日本人でただ1人行かせてもらったので、学びながら覚悟ができていったというところもありました。オポチュニティがある半面、ダメ経営者を飼っておくことは少ないですから、うまくやらないとアウトもあるわけで、そういった覚悟もできたと言えます。アメックスというのはすごい世界でしたね。

日々の鍛錬
〜意識して仕事を鍛錬の場とする

― 経営者になるため、なってから日々の鍛錬は何かしていましたか?

鍛錬といえるようなものは、何もしてないんですよ。すごい人脈ですねとよく言われますが、人脈づくりも意識的にはしたことがないです。偉いから知り合いになるわけではなく、ビジネスで出会ってお互い合うことがわかって、その人が後ですごい人になっているという感じです。読売新聞の渡邉恒雄さんはソニー入社前に読売新聞ワシントン支局で丁稚奉公していた時の支局長でしたし、日本テレビの氏家さん、日経BPの河村さん、日経の杉田さんなども偉い人だからというわけではなく、結果として偉くなられているんです。そういう意味では、メンターはすごくたくさんいます。初期の頃は、お会いしたことはないですが松下幸之助さんや本田宗一郎さん、そして、盛田さん、井深さん、渡邉さんがメンターでした。特にライブドアに行ってからは20代、30代の人たちに教えてもらって支えてもらって、育ててもらった。彼らが今のメンターです。

アメックスやその後行った会社でも研修などはありましたが、経営者になるための鍛錬はしたことはないです。新しい会社に入社してそこのユニフォームに着替えると、「今夜のナイトゲームからスタメンだよ」という世界ですから、「ちょっとわからないので慣れるまで勉強させてください」というわけにはいかないからです。

MBAについてもよく質問されますが、いるかいらないかで言ったらいらない、取れるオポチュニティがあったら取っておいたらいい、というスタンスです。なぜかと言うと松下幸之助さんも本田宗一郎さんも稲森さんも盛田さんもMBAをもってないからです。外資の場合MBAホルダーだと2割給料が高くなるかわりにリスクは4割高くなる、という話をします。MBAなのにこんな仕事もできないのか、上司も部下もそういうふうに言われるリスクです。MBAを取ってダメになった人もたくさん知っています。MBAは就職に有利な資格とは違うので、それで実力が伴わなかったら大変だよと脅かします。ガッツも学んでこなくてはいけないし、外国人相手に理論武装して論破する手法も学ばなくてはいけないし、フレンドシップやネットワークも築かなくてはならない。そういうのを全て総合してMBAなので、それで成功している人はすごいです。頑張ってコツコツやって資格だけ取りました、という人はたくさんいるけれど、それは辛いですね。

― 特に能動的に鍛錬をやらなかったけれど、仕事がそういう仕事だったということですね。

そうです、OJTです。それが鍛錬でした。そういうふうに自分で思っているかどうかで、鍛錬なのかそうでないのかが分かれます。「自分はこの部分が弱かったけれど半年経ってどうなんだろう」と振り返ることが重要です。アメックスの場合には年2回の自己評価の場面で、意思決定プロセス、コミュニケーションなど、客観的に自分自身について振り返ります。自分で自分を評価して、その後上司が評価するのですが、自己評価があまりにずれていると、それも評価につながります。日本人で「いやいや私はだめなんです」と5点満点で2、3、2、3と低い自己評価を付けてくる人がいます。個々の点数を上に直してあげることはありますが、「総合の評価は低いからね。自分のことも見ることができていないのであれば、部下も見ることができるわけない」となります。

あとは数字ですね。経営は数字です。数字を上げるために経営しているわけですから、全ては数字で判断します。

― そういうふうに思われたのにはきっかけがあるのですか?

やっぱりアメックスに行って、すべてを数値化する、ということに触れた時です。人事だって数値化するんですよ。人事はサービス部門だから社員を顧客と見立てて、顧客満足を指標にしたりしていました。

顧客満足を高めることは目的ではなく、ストラテジーです。利益を上げて企業価値を高めて株主に還元するために何をすればいいのか、という目的がぶれないようにしなくてはなりません。経営者としてのトレーニングという意味では、Intuitの時もGEの人たちが入って来て経営会議の時にビジネス・ゲームをやるわけですよ。従業員がやる気になれば、カスタマーは喜び、売上利益も上がり企業価値が高まる、そうすると株主が喜ぶ、そういうゲームを年中やっていました。

主観的業績
〜2回クビになって2回とも助けられた

― これまでの経験のなかで、主観的に自分としてはこれはやれたなという仕事は何ですか?

自慢できることは2回クビになったけれど、2回とも助けられたということです。1回目はIDGの時、COOと合わず、9月から期が始まるのに12月まで年間契約にサインしなかったら、12月末にクビになったんです。経営会議で結論が出た知らせを受けて、社員が当時80人くらいでしたが署名をして反対をしてくれて、CEOがボストンから飛んで来ました。その時に、土曜日に6、7時間抵抗して助けてくれたんです。2回目はライブドアの時に本を出したら、暴露本を出して自分だけもうけたと外人の取締役から言われてクビになったのですが、監査役の人たちが助けてくれました。その人たちがいなければ、いくら自分が抵抗しても無理でした。他の人が抵抗して救ってくれた。それが勲章です。

7年間で弥生のビジネスモデルを変えて、4年で営業利益率を40%にしたというのを言っても面白くないでしょう。MBOしたとき95億円、ファンドと自分たちが出したのが45億円で50億円は銀行から借り入れて、45億円が235億円でライブドアに売れて、ライブドアは740億円でファンドに売りました。ライブドアの株主のためにはやることはやりましたが、そういう話より2回クビになっても生き残ったというのが自慢ですね。

最も大きな経営判断
〜IntuitジャパンでのMBOに至るプロセス

― 最も大きな経営判断は何で、そのよりどころは何だったのでしょうか?

いちばん大きいのはIntuitに入った後、クイックブックスの販売を辞めたことです。アメリカでは70%のシェアを有する会計ソフトで、それが日本で売れないからAOLから引っ張られたんです。ちょうどAOLはドコモに吸収されたタイミングということもありました。Intuitジャパンは東京のミルキーウェイと大阪の日本マイコンを一緒にした会社で、そこに東京弁も大阪弁もわからない外国人が社長になっていて、というところに行きました。アメリカで売れているものが日本で全然売れないため、それを売れるようにするというのが最初のアサインメントだったので、現状認識と問題点の把握、解決策のプライオリティ付けを行いました。プロダクト別のP/Lを作ってみるとクイックブックスは仮に100万円の売上を上げるのに90万円くらい使っている、一方弥生は20万円くらいでやれる、ということがわかりました。全部弥生にするか、という議論は2年くらい前からあったようですが、誰もアメリカ本社に言いに行かなかったということでした。

そこで私は本社に対して、「私の仕事は何ですか? この会社を伸ばすことですか? このクイックブックスを売れるようにすることですか? 両方って言わないでくださいよ。他の物を売って会社を伸ばすこともできるんだから」という話をしたら「会社を伸ばすことだ」という返答で、それから3、4カ月くらい何度もプレゼンの練習もして経営会議に臨みました。常に日本人は自分だけでした。「クイックブックスの販売を辞めます」という話をすると、ビジネススクール出身者たちからいろいろ言われて、最後は口で負けるから、「じゃあおまえが日本に行ってやれ、ここに日本語の辞書もあるから」と言うと皆がげらげら笑ったりしながら、シミュレーションを見せて「これだったらできると思う、これをやろうと思う」と言うと、オーナーがチェアマンなので皆その顔色を伺っています。最後に「Up to You.(おまえが決めろ)」となって、「ああよかった」って皆を笑わせたりしてその場は終わったのですが、半年か1年経って日本から撤退するという話になりました。いつもだったら秘書を通じて定例カンファレンスで話をするのが、突然自由が丘にいた時に携帯電話にかかってきて、「いろいろ考えたんだけれど日本から撤退しようと思う。売ろうと思う」と。どこに売ろうかと決まったんだなと思っていたら、「それが相談なんだ」と売却先を探すのを手伝ってくれという話でした。それで結局従業員からも資金を集めて、MBOしました。アドバンテッジパートナーズの代表パートナーである笹沼泰助氏とリチャード・フォルソム氏に出会ったのはその時です。彼らとは今でも仲のよい友人です。

当然、リスクも考えました。その時に私自身も銀行から借り入れしましたけれど、失敗しても家族が路頭に迷うことはないなと、子供たちを育てながら、何かあったら3ヶ月くらいで今くらいの給料の仕事だったら見つかるだろうと、人生でこういう機会というのもなかなかないし、と思ったんですね。私自身はコミットメントを見せる上でもかなり出資しました。皆には、MBOにならないからちょっとは入れてくれと、でもいくら入れてほしいとは言いませんでした。今でもあの時はすごいチームだったと思います。

強み・弱み
〜強みは弱みを見せられること、長く広い交友関係

― ご自身の強みは何だとお考えですか?

チームビルディングです。チームを作るときに絶対外せない3つの原則があると思っています。その分野において自分より優れていること、必要な時にNOと言えること、個人的な友達でないことです。新しい事業を興しにいくのはまた別の話で、私の場合うまくいってない会社ばかりやっているので、修羅場に乗り込む時には個人的な友達だとやりづらいんですね。こういう人たちを自分の責任でヘッドハントして呼んできます。これまでも運がよくて、いい人たちに恵まれました。今でも何かあったら呼ぼうと思っている人が2人くらいいます。10年以上付き合っているけれど、ラーメンを2、3回食べたくらいで、お互い友達じゃないよね、と言っています。いつも一緒にゴルフをやっている、飲みに行っている、というのは日本でよくあるでしょう。それとは違います。

経営って何なのかと言ったら、いい人を集めることなんです。経営資源を人・物・金と言いますが、何が大切かと言ったら人・人・人。いちばん難しいのは、人を見る目、面接で見抜くことです。10人だったら2勝3敗5引き分けくらいでしょうか。新卒は基本的に採りません。インターンやアルバイトをしていたりしたら採ることもあります。人を見抜くのは難しい。レジュメを見て面接してもなかなかわかりません。そして何がチームで重要なのかというと、人と人、会社と会社との合併も同様に、ケミストリー、相性なんです。ゴルフ、カラオケではなくて、プロフェッショナルとしての相性です。

そう考えると、私の強みは自分の弱みを開けっ広げに見せることかもしれません。自分はここのところが弱い、だからおまえがいるんじゃないかと、だからチームなんだよと。ライブドアの時も、エンジニアとかファイナンステクノロジーとかすごい人たちがいて、一度説明を聞いてもわからないことは何度も聞きに行っていました。また、社長室の壁はホワイトボードのように全部書けるようになっていました。私は書かないとだめで、図形化しないと考えがまとまらないんです。

自分から先に弱みを見せる、さらけ出す、だから彼らもさらけだしてくれる。これは昔からそうなんです。自分に弱いところがあっても他で補完できるんだったら無理に自分でやらなくてもよい。なんで自分だけでやろうとするのか、よそのパワー、資源を使ったほうが早いことも多いです。アメリカ人を見ていてこれも勉強したことです。ソニー・アメリカで初めてコンピュータを10万台くらい仕入れてほしいというプレゼンをして、出井さんにとにかく行って来いと言われて、ソニー・アメリカの社長などたくさん来る場に行きました。そこであるアメリカ人から、「自分は頭が悪くてよくわからないんだけれど・・・」と何度も質問されて、こちらからもいろいろ話をしているうちに、「10万台は売れないかもしれないね」と言われ、強気だった私も「うーん」となってしまいました。アメリカ人でも意思決定は自分がやるから相手には考えなくていいという人もたくさんいますが、そのアメリカ人のその手法はすごいなと思ったのを今でも覚えています。

弱みがあったら補完すればいい。強みをもっと強くするほうがずっといいです。英語ができなければ通訳を雇えばいい。経営の意思決定は通訳を雇ってできることではないですが、うまくいっている会社なら必要な時には通訳を雇えばいいのです。ただ、私の場合うまくいっていない会社からしか仕事が来ないから、そういう時はCEOの携帯番号を持ってないとだめなんです。ふつう電話会議の時には事前にアポイントをとって時間を決めてやりますが、「ちょっとまずいんだけど・・・」「今回は売上いかないけれど利益だけは出すからそれでにぎらない?」という交渉する場合には、通訳を使ってできないことがたくさんあるからです。

― 幼少時代など、もともとはどういう方でしたか?

極めて自信がなくて、クラスに50人いたら、外面はいいけれどトップ10には入っていないという感じでした。このままではまずいなとずっと思っていました。親が谷底に落としてくれなかったから自分で自分を落としました。最初の谷底は何かというと、大学時代に360ドルで8カ月から10カ月近く東南アジアを放浪したことです。あれで生き残ったというのはすごい自信になりました。自分で「大丈夫だ、おまえならできるよ」と言わないと誰も言ってくれないですから。それまで高校の時も冬山や式根島に一人でテントを張って、というのはやっていて、皆でわいわい騒ぐのは好きだけれど旅は一人がいいんです。最近でも家族とも旅行しますが、毎年1人で1週間アメリカに行ってハーレーに乗っています。

虚栄心をはってガキ大将じゃないけれどガキ大将のふりをしていました。自分で見栄をはって実力がないのは知っていたけれど、リーダーシップを発揮するようになってはいたけれど、本当はそうじゃないのではないかとずっと思っていました。今でも少しそう思います。そういうのを払しょくするには有言実行です。当時海外に1人で行くなんて、公言して自分を縛らなければできませんでした。

負けず嫌いかと言われれば基本的にはそうですが、負けていいものはしょっちゅう負けています。ゴルフはうまくなろうと思わないし、ハーレーの鈴鹿レースもうまいやつにはかなわないと思う。全てにおいて負けず嫌いということはないですが、ビジネスの目標など絶対ゆずれないというところはあります。

月夜野の古民家で始めた農業についても、週末などに行った時には朝5時からずっと働いています。家を修繕したり、井戸を掃除したり、畑を耕したりしていると、あっという間に1日が終わります。妻にも「家だとソファで寝ているかテレビを観ているかだから、どっちが本当のあなたかわからない」と不思議がられています。そこでのご近所付き合いなども本当に面白いです。

― 平松さんは、交友関係が広く、とても大事にされていますよね。

ハーレーの仲間、会社の仲間、大学の仲間、ビジネスの仲間、農業の仲間など様々で、近所の仲間は飲み屋もカラオケもゴルフも一緒で仲がいいです。前に一度、親友って誰なんだろうと真剣に考えたことがあります。深い友達っていないのかもしれない、いや、皆そうなのかもしれない。何かあったら来てくれるし自分も行ける。常に一緒というのではないけれど、そういう人たちが結構いるなあと思います。

昔クビにした人が何人も一緒に仕事したいと相談に来て、仕事を探したりすることもあります。人とのつながりは、はまると長いほうなのかもしれません。先ほどお話した19、20歳に東南アジアでヒッチハイクした時に知り合ったフィリピンの家族ともいまだに付き合っています。当人たちはもう亡くなっていて、その後息子さんも亡くなったのですが、その妹の旦那さんとも会ったりしました。つい先日も、そこの次男から、フェイスブックスで見つけたという連絡が来たんですよ。

外資系に行ったというのもあるかもしれません。アメックスにはクオーターセンチュリークラブという25年働いた人たちのクラブがあって、それは副社長から守衛のおじさんまで称賛されるのですが、他の会社の人たちは皆散らばってしまっています。それがフェイスブックとかそういうのでまたつながってきています。テクノロジーがなかったら実現できないことですね。19歳のときに知り合ったマニラの人たちの息子、娘と、その子供たちと今でも付き合いがあるというのはすごいでしょう。別に大切にしているわけではないし、こまめにやっているわけでもないのですが、ずっとつながっています。不思議ですよね。

最近も結構忙しいけれど、肩の力を抜いて生きるようにしています。実力がないのに実力以上のことをすると肩に力が入ってしまうからです。あと、今やっているのは最も苦手だったことですが、「ほどほどにする」ということを心がけています。もともとアイドリングが高いほうで、4000とか5000とかなのですが、MBOやエグジットなどやっていたから5000、6000くらいにすぐなっちゃったりするわけですよ。ライブドアの2年半というのは、7000、8000、もうレッドゾーンぎりぎりのエンジン壊れるくらいのところでやっていました。ライブドア終わってから5000、6000まで落として、だいぶ落ちたと思っていたけれど他の人から見るとまだがんがんいっている。というわけで病気になったりもして、1ヵ月寝たきりになって、いろいろ考えて反省したりしました。回転数をあげないと面白くないけれど、ここはという時以外は常にはやめようと。ほどほどに生きるというのは大嫌いだったけれど、60過ぎたらそうしないといけないです。病後、医者に毎日歩けと言われたので、自分で毎日何キロ歩いて、と目標設定していたら、そういうのをやめなさいと言われてしまいました。目標設定しないでどうするんだと思ってしまうんですね。今もう薬は飲んでいませんが、高血圧と糖尿病が見つかった時も、毎日グラフにして目標設定して・・・そういうのが大好きなんですね。

インタビューを終えて

平松さんは、大学時代に東南アジアで10ヶ月ほど放浪した後、大学を中退して国際ジャーナリストを目指して渡米し、読売新聞ワシントン支局で働きながらアメリカン大学を卒業、その後ソニーに入社してニューヨークで広報としてのキャリアをスタートされました。東京本社の海外事業部、オーディオ事業本部では盛田氏、出井氏の近くでウォークマンやパソコンなどの事業に携わった後、アメックスを皮切りに、複数社での社長職に就任されます。生来のエネルギーレベルの高さ、選抜経営者教育、数々の修羅場経験、メンターの存在が、平松さんのプロ経営者としての実績を支えてきたのだと思います。

お話を伺っていると、エピソードの端々に平松さんの人望の厚さが垣間見えました。よく知らない人からはアナログで人とのつながりを大事にする、どちらかといえば情緒的な人だと思われるけれど、よく知っている人は合理的、合目的的だと言う、と仰っていました。かつて、アドバンテッジパートナーズのフォルソム氏に「欧米的な合理的な経営をするけれど、それを出さずに日本的な情を見せる極めて珍しい日本的な経営者」と言われたこともあるということでした。現在も「ほどほどに」と仰りながらも精力的に小僧comのビジネスにまい進され、月夜野での農業についてイキイキと楽しそうに語られる平松さんの笑顔がとても印象的でした。

インタビュー:組織行動研究所所長 古野庸一 /文:主任研究員 藤村直子
協力:株式会社 経営者JP 代表取締役社長・CEO 井上 和幸 氏
※本インタビューは2010年9月22日に実施したものです。


PROFILE

平松 庚三(ひらまつ こうぞう)氏 小僧com株式会社 代表取締役会長

1946年生まれ。アメリカン大学(Washington,D.C.)コミュニケーション学科卒業。ソニー株式会社入社。ソニーで13年間勤務した後、アメリカンエキスプレス副社長、 IDGコミュニケーションズ社長、AOLジャパン社長などを歴任。2000年にIntuitジャパンのCEOに就任。2002年にMBOにて米国親会社から独立、社名を弥生株式会社に変更、同社の代表取締役社長に就任。2004年全株式を売却してライブドアグループ入り。 2006年1月株式会社ライブドア社長就任。2007年4月社名をライブドアホールディングスに変更、代表取締役社長就任。2008年1月に人生の後半戦を楽しむ「人生のエンターテインメントパートナー」としてアクティブなシニアを応援する小僧com株式会社代表取締役会長に就任。

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