「プロ経営者」の育ち方・育て方 第7回 学びを実践しながら、自己に対する厳しさを持ち徹底的にやり抜く 池本 克之氏

執筆者情報
組織行動研究所
所長
古野 庸一
執筆者情報
組織行動研究所
主任研究員
藤村 直子

このシリーズでは、「プロ経営者」の育ち方・育て方への示唆を得るために、複数企業で経営者としての実績をあげた社長へのインタビューを行っています。今回はその第7回として、ドクターシーラボ、ネットプライスにて社長職を歴任された池本克之氏にお話を伺いました。


経営者になる覚悟
〜大学時代での決意

― 経営者になることは、いつ頃どのように決められたのですか?

20歳ぐらいの時に、とにかく10年サラリーマンをやってみて、それから自分で経営をしようと決めました。

大学時代には、たくさんアルバイトをしていたんです。いくつかやっているうちのメインはディスプレイのアルバイトでした。ディズニーランドでもやりましたし、横浜そごうなど当時百貨店としては日本一の床面積で、そのディスプレイを全館やるんですよ。セールシーズンになると天井からの看板を取り付けたりエスカレーターの周りに案内を貼ったりするんですが、閉館してから翌日の開館まで徹夜でやるんですね。そうすると、アルバイトを50人、100人の規模で確保する必要があって、その調達係を頼まれて、大学の友達を引き連れて「30人で来ました」みたいなことをやっていました。そこで儲けるという発想は全くなくて、結構良い臨時収入になるので友達にも喜ばれて、それを意気に感じてやっていました。

そうこうしているうちに、20歳ぐらいの時、周りも動き出したので就職について考え始めました。当時、先程のディスプレイのアルバイトの元締めみたいな仕事は期間限定で毎日ないので、他に六本木の夜の飲食店のアルバイトや、外国人モデルの通訳兼道案内のような仕事をかけもちしてやっていたんですよ。いろんなアルバイトをしていた中で今後のことを考えると「このまま普通に会社に入って働くのはなんかちょっと窮屈だな、いやだな」と思ったんです。スーツ着てネクタイ締めてというのは、自分のイメージとしては暗い印象でした。最初にそう感じた理由は単純で、千葉県の自宅から神奈川県の大学まで2時間ぐらいかけて電車通学していたんですよ。そうするとサラリーマンのラッシュアワーと行きも帰りも重なるんですね。朝は通勤ラッシュ、帰りも六本木のアルバイト先で飲みに来るお客さんたちを見たりしていて、こういう生活をするのはなんかちょっといやだなあと。

何かないものかと考えた時に、アルバイトでいろいろやっていることを自分でビジネスにできないものかと思いました。でも大学は農獣医学部の農学科で、バイオサイエンスなどと言われ始めた頃でしたが、実際はイモ掘りをしたり花の勉強や気象学をやっていたりしたので、経済のことが全くわからない状態で、このまま会社や事業をやるといっても無理だろうと思って、周りもみんなサラリーマンになるし、まずはそちらに行こうと決めました。たぶん何か商売するにしても、相手にするのはそういうサラリーマン(女性も含めて)が世の中の大多数で、そういう人たちに何か買っていただくとかお金いただくことになるから、どういう暮らしぶりをしているかがわかっていたほうがいいなとも考えてのことでした。

― ちなみにアルバイトをたくさんやっていたのは理由があるのですか?

お金が欲しかったからです。大学入学前は土浦日大高校の全寮制の野球部で、360日ぐらい練習していたんですよ。日大野球部のセレクションを受けたんですけれど、高校の時キャプテンだった先輩が外野の隅っこのほうで球拾いしているのを見て、1年生からベンチ入りぐらいはするだろうと思っていた人だったのでショックでした。入部はできるかもしれないけれど、プロとして野球で食べていくのは無理だなと思って、セレクションの結果が出る前に野球部はやめたと決めたんです。それで勉強して、野球部の中で唯一スポーツ推薦を使わずに入学しました。農獣医学部になんとか入りまして、大学生になったぞと、野球もやらなくていいぞと、よーし遊んでやると、そのためには金が必要だということでアルバイトを始めました。大学生でもばんばんお金を使うのがかっこいいという時代だったので。割の良いものをやって、月20万以上は稼いでいたので、社会人になって収入が減ってしまったぐらいです。

日々の鍛錬
〜がむしゃらな学びから計画的な学びへ

― まず経営や経済とは何かを理解するためにサラリーマンになられたというお話ですが、実際会社に入られて、経営者になるために何か意識して行っていたことはありましたか?

大学を出て就職したのはアポロリースという会社でした。仙台の会社だったので関西出身者が珍しくて、神戸出身という理由だけで「大阪で資金調達やれ」と新入社員でいきなり言われて行きました。10年と期間を決めたものの給料は安いし、最初は仕事もわからないし、友達もいないし、困ったなと。それなら勉強して自分のレベルアップをしようと考えたんですね。幸いだったのが、資金調達担当だったのでいろんな金融機関の方との接触がメインの仕事だったんです。配属された部署には上司の課長が1人いて、男性の部下が私だけで、あとは事務スタッフの人たちが2、3人という状況でしたので、銀行に折衝に行く時はいつも課長と2人でした。銀行に行くと、地銀の本店などでそれなりのポジションの方、融資部長や場合によっては役員、頭取クラスの方が出てこられるわけですよ。そこへ40歳そこそこの課長さんと、23歳の私ですよね。これはチャンスが来たなと思いました。この人たちから学べばいいと。

でも60歳、70歳という人たちは敷居が高すぎるというかレベルが違いすぎて、学ぶと言っても最初の3ヶ月ぐらいは発言の機会すらないわけですね。そのうち銀行で窓口担当になった30歳ちょっとの課長代理の方と仲良くなり始めて、その方が体格の良かった私を社会人ラグビーのクラブチームに誘ってくださったんです。ラグビーなんて初めてやったんですけれど、土日は暇なものだから全試合出場して、若いし走れるし体力あるし、とりあえずボール持ったら前に進めみたいな感じでやっていました。そうすると違う業界の活躍している方たちとの接点ができて、終わってから飲みに行こうとか、今度こういう勉強会あるからおいでとか、かわいがってくれてですね。銀行や他の業界の方たちからいろいろ教えてもらったことを吸収し始めたんです。

1年8カ月後に転勤があって東京に戻りました。10年という目標を立てた中で、大阪ではたまたまそういう機会があったけれど、これからは自分で意識的に吸収することをやっていかないとだめだなと思いました。そこから読書を始めたり、勉強会に行き始めたりしました。当時はオーディオブックなんてなかったですから、テープを買って勉強したりもして、自分の給料の結構な額を投資していました。それと同時に始めたのが、資格を取る勉強でした。とにかく知識欲がものすごく出て、それを証明するものとしては資格を取るのが自分としても納得がいくというか、手ごたえがある、そんな感じがして、まずは資格を取得すると会社で手当が出るもの、簿記とか衛生管理者とかから始めました。最終的には、不動産融資が多かったので宅建を独学で勉強して一発で通ることができました。こんなふうに意識をして勉強を始めたのが24、5歳の頃でした。

― 勉強や読書の習慣はその後もずっと続いたのですか?

そうですね、今に至るまで。変わった点といえば、前はネットで本買うなんていうのはなかったので本屋に行きまして、投資できる金額も限られているので、人気があるビジネス書のところに行って、平積みになっているものを月に1冊か2冊買って読むということで、手当たり次第にやっている感じで計画性がなかったんです。計画性が出てきたのは、保険会社に転職した、30歳ぐらいからです。

― 計画性が出てきたのには何かきっかけがあったのですか?

はい。7年間アポロリースにいたんですけれど、そのうち3年ぐらいは海外のホテルの仕事をしていました。アポロリースに入ったのが1つ目の転機だとすると、2つ目は「貸した金が返ってこないからホテルの面倒を見て何とかしろ」という指令でハワイのホテルに出向した時です。私の最初のメンターになってくれる浜崎さんという経営者と2人きりの会社だったんですね。浜崎さんはオーナーとの個人的な関係で招聘されて「うちから若いのを1人つけるから」というので指名されたのが私でした。

とても上司に恵まれているんです。最初の大阪の上司もそうです。ちなみに最初の上司が「今まで学校で勉強してきた時は金を払って勉強していた。会社は金をもらって勉強できる。こんなありがたいことはないから、給料が安いとか文句言わずに勉強しろ」と言ってくれたことがその後の学びのきっかけになりました。ハワイのホテルでの上司である浜崎さんは、日本ペプシがあった頃の日本人トップも経験されていた方で、アメリカの大学も出てMBAも取っていらっしゃるし、当時にすると結構珍しい人材だったと思うんですよね。英語もぺらぺらだし、海外のホテルでトップをやっているわけで、すごい方だなと思いました。

衝撃を受けたのは、くだらないことなんですけれど、リース会社にいると上層部に銀行出身者が多いので、銀行独特のルールというか生活習慣があって、新入社員は一番に来て机をふくものだ、シャツは白に決まっている、暑くてもネクタイを取るな、というようなことがいろいろあったんです。それしか知らないから、世の中そんなものだと思っていました。浜崎さんと一緒に働き始めた時に、自分はやることがないけれど社長が帰らないからずっとオフィスに居たんですよ。そうしたらぱっと顔をあげて「おまえ何やってるんだ。帰れ、やることないんだったら。俺のことなんて放っておけ。仕事をしていない時は帰ったらいいし、ゴルフとかしたかったからやってきていい、休め」って言われて、本当にびっくりしました。「そのかわり仕事はめちゃくちゃあるよ、教えてやるから」という方だったんですね。もう仕事はされていませんけれど、今でもやりとりがあります。

― その方と一緒にハワイのホテルの建て直しを経験されたということですね。

そうですね。最終的には、会員制プログラムで売って、たたんだほうがいい、案件としてクローズしたほうがいいという結末になり、そこまでもっていかれましたね。会員制プログラムは当時日本にはなかったわけで、そういった新しい発想を取り入れて、ランドオーナーとの交渉や本社とのやりとりを全部そばで見ていましたから「なるほどネゴシエーションというのはこうやるんだ、すごいな」というのを実地で覚えた感じです。

― その後は日本に戻られたのですね。

3年近くその方と働いて、だいたい決着がつきそうだからと戻されて、時代も変わって今度は借金取りの仕事を国内でやれということでした。わずかな期間でしたけれど、そこでただお金を返してくださいと言ってもないものは返せないで終わってしまうので、どのようにしたらお金を作り出してもらえて、そのうち一部でも返済にあててもらえるか、というちょっと経営コンサルみたいなことを勝手にやり始めたんです。会社は「とにかくとってこい、ねばれ、1万円でも領収書切るまでは帰ってくるな」みたいな世界でしたから、それではだめでしょうと。どうしたものかと思って、その時に浜崎さんとのホテルのことが土台にあったので「この会社を浜崎さんみたいな感じで建て直せるんだったらどうするかな」と考えて、青森県の旅館、大阪の不動産、ゴルフ場を経営している会社などにいろんな提案をして「もしお金が足りなければ追加融資するからそれをもとに設備投資して、こういうふうに売上を建て直して、そのかわり儲かったら優先的にうちに返して」ということをやりました。完全に年上の経営者の方に30前の若造が来てそういう関係を作るということも、浜崎さんのネゴシエーションや関係の作り方というのを見て覚えて、見たままをやってみました。

青森の旅館でも最初は完全に敵対でしたね。若いのを寄こして借金取りが来たと、ふざけるなみたいな感じだったのが、最終的には、青森弁でご飯食べてくかというような話になって、とても感謝されて。売上が上がったわけですから。2人で涙ながらに手を取り合ってというような状況でした。これでいいんだな、仕事ってこういう喜びがあるんだなというのがわかったんですね。学生の時に会社をやると思っていたのはこういうことをやればいいんだと。当時有名だった悪徳不動産なども担当だったので、これでは命がいくつあっても足らないと、もうちょっと世の中に貢献できることをしながら、もっと勉強しなければいけない、10年という目標にはあと3年ある、これは転職だというのでソニー生命に行きました。

― そこで先程お話のあった計画に関するきっかけがあったのですね。

はい。自分にとっての3番目の転機はソニー生命での経験でした。当時プルデンシャルと分かれたばかりの頃だったので、プルデンシャル流の教育をすごくしてくれたんですよ。代理店セールスの仕事だったので、生命保険という難しい商品を、しかも代理店を経由して売らなくてはいけないというさらに難易度の高い仕事で、会社もすごく教育してくれたんですね。ものの売り方とか、コミュニケーションとか、組織の作り方とか、自分で勉強してがむしゃらにやっていた4年間、浜崎さんとの3年間のことが実際そこで体系立てられました。次々に「それ知ってる、浜崎さんがやっていた」というようなことがあって、バシバシ後づけで頭に入って来ました。

その時に教育担当の人から「計画を立ててやらなければいけない、学ぶにしても学び方がある」ということも教えてもらったんですね。今までがむしゃらにやってきたことも決めてやらなければいけないと。30歳の時に転職して、そこでいろんなことを覚えて計画が大切だということがわかってきて、32歳の時に25年間の人生の計画というのを、会社の研修プログラムとは全く別に自分で作りました。

代理店に計画を立てさせるプログラムを学んで、指導していくわけですよね。そうした時に、ちょっと待てと、人に言うのはいいけど、自分はどうなんだと思ったわけです。ある代理店の社長から「池本さんはすごく優秀だと思うし勉強もよくしているけれど、こっちの世界のことを知らないよね」って言われたことがあったんです。「そうやって計画しなくちゃいけないと言ったところで、経営者やったことないよね」と。「僕はしがない代理店かもしれないけど」といっても日本でトップ5に入るような保険代理店の会社だったんですけれど、「中小企業かもしれないけど、僕は経営者としてやっている。君はそうは言ってもサラリーマンだよね。こっちの世界知らないよね。こっちに来いよ」みたいなことを言われたわけですよ。やっぱりそうかと。もうそろそろ10年経つし、行きますわ、みたいなことを話したんですね。

それをやっていくためには、10年目は来年あたりにせまっているから、そこから先どうするんだという自分としての人生の計画を決めなければだめではないかと。そういう計画性がないからスタートが切れないんだと。どうしていいかわからないし、やみくもになってしまっていると。なんでそんなことに早く気づかなかったんだろうと思いましたけれど、そこで25年の人生計画を立てたんです。

「ビジネス書はこういうものを週に1冊読む」「こういうセミナーにこうやって行く」「次の1年間こういうものを学んでいく」というのを初めて作ったんですね。そして、何を最終的に手に入れたいか。お金1つとってもいくら欲しいのかというのがなかったんです。決めてもいないのに手に入るわけがないと、そう教えられましたから、手に入れたい物欲、金銭欲、地位、名誉、知識、ことこまかに決めたんですね。それを決めてから全て手に入れるまで約2年です。34歳ぐらいの時に、計画を立てる効果をみんなが言ったり研修で教わったりしたのはそういうことかというのがやっとわかったんです。それはどこでそうなったかというと、ドクターシーラボが上場した時にお金が入ってきましたから。ある日突然自分が25年計画で手に入れたいと思っていた金額とほぼ同じ額が振り込まれたんですよ。びっくりしましたね。「象を食べるにも一口から」ですから、切って切ってちゃんと一口ずつ消化していくと、最終的には大きな塊の象も食べられるんだと腹に落ちました。

― 人生計画を25年と決めたのはなぜですか?

4分の1世紀できりがいいからです。32歳だったので57歳までになりますが、60歳で定年っていうのもよかったんですけれど、定年というところに区切りを置くのがサラリーマンっぽくていやだったというのが1つ、それから28年計画というのが半端な感じでなんとなくいやだったので、25か30で、前倒しして25というような、勢いで決めたものです。

― 目標としてお金の話はありましたけど、それ以外にも地位とかどんな会社の社長をやるとか、いろいろあったわけですよね。

会社のサイズとか自分の会社の売上の規模ってところは今でもなくて、たとえばさっきの例で言うと青森の旅館とか、そういう体験をいっぱいしたいなって思ったんです。計画を作る時に自分の原体験としては何なのかと内省して振り返ってみました。たぶん祖母の影響をすごく受けているんだと思いました。父親とはあまり話をしませんでしたし、母親も躾の面では厳しい人でしたが、外に出て働くのが好きで家にあまりいなかったので、私は母方の祖母に面倒をみてもらっていて、おばあちゃんっ子だったんです。彼女は戦後看護師の新しい制度ができた時の第1回試験の合格者でした。弱者のために奉仕する、貢献するというメンタリティがあって、看護師の免許を持っているのに養護学校、耳の悪い方のための学校の保健室の先生などをやっているような人でした。私が6歳まで育った神戸の家に、耳の聞こえない当時の学校の卒業生や在校生の人たちがよく訪ねてきてくれるんですよ。よく来るので不思議とも何とも思わなかったんですけれど、今にして思うと当然会話の音はないですよね。手話がうるさいっていう表現をしていましたけれど、要は手話をいろいろやっていると本当にざわざわした感じになるんです。そうすると祖母は畳をトントンと叩く衝撃で「もう少し静かに」というのを伝えたりしていました。そんなことを見ながら育っていたこともあって、そういう人たちと接することはあたりまえというような感覚が根本的にあります。祖母のように人の力になりたいというのが私にもあるんだなっていうのが、アポロリースでハワイにいたり、日本に戻ってからコンサルタントのような仕事をしたりしていた時にわかったんですね。ハワイではアメリカ人の宗教的な面も見ましたし、向こうのホテルはあたりまえのようにスロープが設置されていて、そういう人が来るとお客さんも従業員も優先的にいろんなことをするというのを見て、これはやっぱりいいものだなと、そういう生き方を自分もしたいなというふうに率直に思ったんですね。今もそうですけれど、コンサルタントとして困っている人を助けて喜んでもらえるとか、貢献できるっていうことに喜びに感じるので、それを仕事にできたらいいなと計画を立てた時にも思いました。

その後独立して1つ目の自分の会社である研修講師の会社を作ったのも、ソニー生命で学ぶうちに人にものを教えるのが好きだということがわかったからです。その根底には今話したような困っている人の力になりたいというのがあって、自分が学んだことを教えていくことでその人が良くなって喜んでくれる、これはいい仕事だと思いました。ソニー生命では自分が教わったことを代理店に伝えて、実際に代理店が活躍して、ソニー生命の代理店部門で全国20位とかに入っていましたから、結構いけそうだと、これは一生食えるわと、大きな勘違いをしましてですね、そんな甘いものではないというのはやり始めてすぐわかりましたけれど。

主観的業績
〜寝食忘れて没頭、組織・人づくりも行い年商3億円を4年で120億円に

― 主観的なものでも客観的なものでもいいのですが、今まで最もご自身として自慢できる業績は何ですか?

やっぱりドクターシーラボの年商3億円を4年間で120億にしたことだと思います。今でも「シーラボの時どうでした?」という質問が一番多いので、客観的にもそうなのかもしれません。

― その成功要因というのは何だとお考えですか?

やらなくてはいけないことや、やれば必ず成果になりそうなことがいっぱいあったんです。でもやる人もいないし理解できている人もいない状態だったんです。私は通販の会社をドクターシーラボの前にも1社やっていて、小さいものですがそこでの成功体験、売上2倍、3倍ということがありましたので、何をすればよいのかわかっていました。そこで、やらなくてはいけない仕事を寝食忘れてやったんです。社長室兼応接室のような部屋があって、そこに1万円のソファを買って毎晩寝ていました。そのソファのひじ掛けのところが私の頭の形にくぼんだほどです。

すごくベーシックなことですが、ちゃんと現状を把握して、それに対して理想は何なのかというギャップアプローチを取りました。計画を立てていつの段階で何をどのレベルにするか、それには何が必要か考えたら、人手がない、それなら仕方がないから自分でやろう、これも人手がないから自分でやろう、結果、当初は全部自分でやることになりました。

既存の人たちのほとんどは「変わったやつが来た、自分で何でもかんでもやっちゃって何なのあの人」という感じでした。皆オーナーのほうを向いていましたから、「あの人、オーナーの知り合いで入ったくせに、社長とか言ってるけど好きにやれば」という感じでしょうね。でもこの商売を何とかしなくてはいけないから、現状を分析して、どこで利益が出ていてどこに課題があるのかを全部洗い出して、それを1つ1つ直していきました。

成功要因が「なぜあんなに急成長したんですか?」という事業に関する質問だとすると3つあって、1つには製品力が挙げられます。新規性、ドクターが作ったという信頼性、オールインワンという複数のものを1つにまとめた利便性が消費者に受けたんですね。2つ目はメディアとの関係づくりです。通販の会社なので広告費が一番コストとしてかかるんですね。広告費をいかにかけずにお客様を集めて物を売るか、というところが利益の源泉なんですよ。新規のお客様獲得のためにお金をかける広告、ただで取材を受ける広報、お客様になった方にまた買っていただくところを販促費というように、社内でも言葉を分けました。ROIを上げるために広報に力を入れました。当時女性誌で若い開業医が日焼けについてコメントしたり記事を書いたりするのは珍しくて、メディア側にもニーズがあったんです。3つ目は、ビジネスフロー作りです。メディアを見てやってきた方に逃さず買っていただく、買っていただいたらもう一回買っていただく、という仕組みづくりをきめこまやかにできて、それが組織だった動きになっていきました。これらの3つのことが重なって、急成長しました。

― 初めは1人でやられていたのを、だんだん他の人を教育していったのですか?

はい。入った時はオーナーとの個人的関係だけで突如現れた雇われ社長ですから、総スカンを食らうのは当然のシチュエーションなんですよね。オーナーがいて、オーナーからの指示で直接動く、というフラットといえばフラットですが、組織立った動きになっていない状態だったので、このままでは会社は大きくならないと考えました。そこで、新しいムーブメントを作ろうと思って一気に中途採用で人を入れました。そして、どういうビジネスフローを作ろうとしていて、何をやらなければいけないのかということや、オーナーでも自分でもなく、ちゃんとお客様のほうを見て仕事をしよう、それにはこうだという保険会社で代理店に言ってきたようなことを化粧品会社用にアレンジしたものをテキストとして作り、毎週土曜日、有志参加の勉強会を、半年ぐらいずっとやっていました。「土曜日出勤して勉強するがそれには給料は出ない」というところは条件として予め提示した上で採用しました。既存の社員からは1人だけ参加して、あとは誰も参加しませんでした。そうするとあっという間に差が出ますよね。私のやり方が正しいとか正しくないとか言う以前に、勉強するから能力も上がるし、必要とされて結果も出るし。対立もありましたけれど、そういうふうにやっていくうちに会社らしくなってきて、既存の人たちも「この結果を見せられたら、仕方ないけれどやるしかないよな」という感じになってきて、だんだんと融合していきました。

― 今伺ってきたお話の中でもずっと成長してこられたんだと思うのですが、最も成長された経験というのは何ですか?

実はドクターシーラボの時のような、寝食忘れて働くという体験は初めてではなくて、最初はアポロリースで大阪から東京に戻ってホテルに出向する前の27歳の頃に、入社4年目ぐらいで部下が7人いたんですよ。自分たちの上の世代、バブル期が来るまでの間の10年間ぐらいほとんど人を入れていない会社だったので、直属の上司は10歳ぐらい歳が離れて、その間がいないんです。だからその間の年功序列的に振り分けるポジションや仕事が若い者にどっとくるわけですね。東京の資金調達部門の現場責任者のようなポジションでした。その時会社が急成長していて、借入金2700億円が翌年5600億円になって、3000億円ぐらいの借り入れを1年間でやったんですよ。東京の資金調達部門は銀行とそれ以外の金融機関で分かれていて、銀行の担当者3人で、3000億円近くの借り入れの8割ぐらいを東京でやっていたんですね。ということなので、ものすごい事務作業が膨大な量で、どんどん人を増やして「おまえがリーダーをやれ」ということになりました。その時も約4ヵ月間、土日いっさい関係なく始発で会社に行って終電で帰るという生活でした。そのうちビルの警備室から総務部に「おたくの社員で1人おかしいのがいる。毎朝一番に来てノートに名前があって、一番最後に名前がある。何かおかしいことをやっているんじゃないか」とクレームが入って、上司も私もそれはもう怒られました。実は宅建の資格を取る気になったのはそれがきっかけなんですよ。仕事させてくれないんだったら資格取るしかないなと。長時間労働も気にならないほど、とにかく仕事をするのが面白い時期でした。働くってすごい楽しいなって思ったし、部下ができないものまで全部引き受けるとか、できない部下に教えるとか、自分の基礎になっている部分が発揮できた最初の場面だったんですね。だからむちゃくちゃ働くということへの抵抗感とは逆の、喜びみたいなものを体感できた最初の経験が、その20代の時でした。

― そこでハードワーキングして成長感というのがあったのですね。

ものすごいありましたね。ここまでできるんだと。月末になると借入の書類が山のようにあって、どう考えても7人で終わらない量で、上司からは「システム部に相談して何とかしてもらえ」と言われたのですが、「いや大丈夫です。自分がなんとかします」と言って7人でやりきれない分もやっていたんです。毎朝毎晩、全部やってやるみたいな感じで喜んでやっていました。

最も大きな経営判断
〜リストラを実行して全責任を負う

― 最も大きな経営判断はどんなもので、その時判断のよりどころは何だったのですか?

一番大きいものは、ネットプライスでリストラをしたことです。希望退職を募り、正規雇用から半分、非正規から3分の2に退職いただきました。もともとネットプライスは購入希望者が増えるほど商品の値段が安くなるギャザリング(R)というオリジナルの共同購入方式を強みとして、無在庫経営をやっていました。売る分だけ仕入れて全部売り切るため粗利は低いけれどもリスクは低い商売で、低価格・高回転で勝負していたんですよ。ある時大手の流通におられた方がアドバイザーとして入ってこられて、「もっと売上を大きくして流通業界にインパクトをもたらして存在感を示すためには、100億ではなく1000億、2000億と、もう1桁上の売上に行かないといけない、それのためには在庫をちゃんと積んで売り切るというところをやっていかないといけない」と言われました。それはそうだと思って「仕入先をあたって安い物があったら買ってこい」と言って実際に億単位で買ってしまったわけですよ。そこまでの仕入れの目利き力や販売力も追い付いていない中で在庫を積んでしまいました。

そのさなかに社長交代で私が社長になりました。そして、社長になって3、4カ月後にリストラ、事業再構築の経営判断をしました。販売期間1週間という1週間単位での商売をしていたので、期末が来た時には在庫は全部損切りなんですね。サイクルを2年、3年で回していれば翌事業年度に持ち越せますけれど、上場している会計基準の中では持ち越せない。ということは在庫数億円がフルインパクトで利益に影響してくるんです。もともと経常3%ぐらいしか利益が出ないので全部ふっとぶどころの話ではなくなって、これは大変なことになるという状況での判断となりました。期末が刻々とせまって来ていましたから、もう7、8カ月しかない中で回復できるかと考えた時にそれは無理だろうと思いました。いくら販売力をつけたとしても、売れない商品在庫を抱えてしまっていたので、別のものを今までのやり方でそれをカバーするぐらい売れるかというと、それには限界がありました。どう考えても、会社を半分ぐらいのサイズにいったんシュリンクさせないともたないということで、リストラを実行しました。商品在庫の評価減、広告費・販促費の半減を行い、オフィスも分散していたので全部解約して1か所にして、当然役員報酬も100%カットしました。

リストラを実行するにあたって一番きついのは人のところです。その方法を考えた時に、自分がそれを発表するタイミングで社長を降りて全責任を負うことにしました。実際は過去の在庫の積み上げがトリガーになっていましたが、外部からは「あいつが社長になったとたんに会社がつぶれそうになっている」と見えるし、持株会社社長の佐藤さんが泥をかぶってしまうと今後復活していく時にやりにくい。誰が泥をかぶるのが一番ふさわしくて最も段取り良くリストラを進められるかというと、自分しかいないと。これが全部終わった時には自分も辞めざるを得ないけれど仕方ないと、この会社が好きでやっと一生雇われ役員でもいいからやりたいと思える会社に巡り会えたけれど、やらなければいけないと決心しました。この会社の仕組みが好きでいてくれるお客様がこんなにたくさんいるんだから、絶対この会社は守らなければいけないと、そのためには自分が泥をかぶるぐらいどうってことないやと思いました。

佐藤さんとはそれまでも打ち合わせなしでも結構意見が一致していたのですが、ある日「ちょっといい?」って言われて、私もちょうど言い出そうと思っていた時で、2人で同時に同じことを考えていたんですよ。すごくいやだけれど生き残るためには他に方法がないと。それは会社として、ということや、佐藤さんが生き残るためではなくて、これだけのファンの人たちを裏切らないためには血を流すしかないねと。

ということでリストラを発表して、2カ月でやりきりました。このリストラ発表をする時、佐藤さんと半分ずつ発表したんですけれど、一番いやでしたね。こんな思いは二度としたくないです。

理想の経営者
〜夢を語ることと実現のための絵を描くことのバランス

― 理想の経営者が実際いらっしゃるならどういう方で、自分としてはこんなのが条件じゃないかと思われていることがあれば教えていただけますか。

お会いしていないけれどこの人すごいんだろうなと思うのは、日本電産の永守さんや松下さん、ちょっと接点があるところだと盛田さんです。一緒に働いてすごい経営者、社長だったなと思うのは、やっぱりメンターの浜崎さんとネットプライスの佐藤さんです。

具体的な人物より理想の経営者の条件のほうがわかりやすいでしょうか。理想の経営者は私の中ではバランスだと思っています。リーダーシップという面からみると、複数の人を率いていくわけで、夢を語る部分は絶対なくてはいけないと思うんですね。自分たちが将来これによって儲けるとか稼ぐとか給料が増えるとかではなくて、これを成し遂げることによってわれわれは世の中からどう評価されたり、どうなっていくんだと、ここを目指していくんだという旗をちゃんと立てられるというのがバランスの片方で、もう片方のバランスは、それを現実的にどうやって達成するのかという絵が描けることです。自分でやったり、背中を見せたりするのは、狭い世界での徒弟制度を除くと、経営者のレベルではなくてもう少し下のレイヤーのことだと思います。そうではなくて、現実的な絵を描いてそれをドライブするように仕掛けや仕組みを作る、夢ばかり語っているのではなくて、確かにこれをドライブできると実現できるというような納得性のバランスが私の中では理想です。

― ご自身ではどちらのほうが得意とかそういうのはありますか?

絵を描くほうが苦手かもしれません。それよりも仕組み作ってドライブしていくほうが得意です。なので、理想追求型の経営者とのほうが、今のお客様としても合うんですよ。「こんなふうにしたいんだよね」と言っていて「そのために何をやっているんですか?」と聞くと「それがわからなくて困っているんだ」というようなケースです。「任してください、それは。それを考えるための絵を描いてさしあげますよ」と。

強み・弱み
〜自分を律する強さと見通し力

― 自分で認識している強みや弱みは何で、強みはどのように磨いてそうなったのか、といったことをお聞きしたいと思います。

まず性格的には、自分で言うのも何ですが、裏表がないんですよ。ついつい本当のことを言ってしまったりするので、時と場合と人によってはえらく憎まれることもあります。いろいろ考えていそうで実際はそんなに考えてないです。裏読みをするとかそういうのに逆に弱いんです。社内で「ここでこの人に言うとあの人に伝わって」というようなことは全くだめで、そういう作戦をしかけられると弱いです。だから性格的な特徴としては結構まっすぐでオープンな感じということだと思います。それから正義感が強いって言ったらいいんでしょうかね。逆に言うと頑固な面があります。こう見えて柔軟性がないんですね。そこを認識しているので、もっと柔軟にというのは浜崎さんのアメリカマーケティングも学びましたし、それなりに克服はできていると思います。

ビジネス的な強みとしては、見通しが立つんですよ。先程のビジネスフローづくりの話もそうなんですけれど、たぶんこれをやるとよくなるだろう、これをやるとこけるだろうという先々が割と読めるんです。周囲からは不思議がられることもありますし、一生懸命動こうとする人たちがいると「それやっても無駄だからやめて、これだけちょっとやればいいんじゃない。そうすると君たちがやろうとしていることはもっと短期でもっといい成果出るよ。」などと性格的にぱっと言ってしまうものだから、本当にそうなるといやなやつみたいに言われたりもします。計画を立て始めたり、代理店にアドバイスをし始めたりした時にだんだんとわかってきたんですけれども、1つひとつのプロセスがどうつながっていてどうなるかという設計図みたいなものが浮かんじゃうんですよ。それは今の仕事でも存分に活かしています。他人の会社でもある程度のことを聞くと、この会社はやってもあまり大きくならないなとか、これはいけるなというのがなんとなくわかります。

― それはバリューチェーンが見えていて、ここが欠けているということやここが弱いということが見えたり、イシューツリーみたいなのがパッと見えて「あ、ここだよね」ということがすぐにわかったりするということでしょうか。

そうですね。それは特技というか他人には理解できないものだと思うので、それを経営者の人に理解してもらったり、前の話で言うと、代理店とかアドバイスに行った温泉旅館の社長とかに理解してもらうためにどうしたらいいのかというので、絵に描いたり、ビジネスフローをツリー状に描いたり、フロー図を描いたり、ということをするようになったんですね。それを実践でやっていく中で、よりわかりやすくするためにどういうふうに書いたらいいか、どういうふうに伝えたらいいかというのも強みとして確立できているんだと思います。

― 見通しが立つというのは後天的に磨けるものなのでしょうか?

たぶん先天的だと思います。そういう教育とかトレーニングとか受けたわけでもないし、受けようもないしですね。直感的なものなので、それを誰かにちゃんと伝えられるか、マニュアルにできるかというと、今のところできてないですね。

― 他には、もともとどういう人だったから経営者になれているというようにお考えですか?

1つには忍耐力です。耐える力、ストレス耐性といったらいいでしょうか。たぶんそれがなかったら、いきなり新卒で大阪にぽんとやられたとか、ハワイ行けとかですね、さっきのリストラの場面とかも、たぶんメンタルも肉体も耐えられない人が多いんじゃないかなと思いますけれど、わりと平気で耐えられるんですよ。

― それはもともとの素養ですか?それとも何かで培われたんですか?

やっぱり野球で培われたんだと思います。自分がこの経営者すごいなと思う方々から、若い頃に苦労されていたというお話をよく伺います。シニアの方であれば戦争体験であったりとか、そうでない方でも親が借金こしらえて貧乏で、というようなことを経験されている方ってやっぱり底力があるというか、ぎりぎりのところでふんばるメンタリティを持っている気がしてならないんです。私はごく普通の中流家庭みたいな感じで育って、そういうことはあまり体験していませんが、高校生の時の経験がそれにあたると思います。むちゃくちゃな世界でしたから。横目でテレビ見たってだけで殴られてましたから。1年生の時にはお風呂一週間入れないのは普通でしたし、おかずなしの御飯だけ残ったのを山盛りケチャップかけて食べろみたいな。聞き返すと殴られると。それが良いか悪いか別にして、そういう究極というか制限がある中では耐えるしかないですよね。100人部員が入って1年生の夏を超えるまでに半減、最終的に残ったのは20人でした。

― ご自身は辞めようと思いませんでした?

何回か思いましたよ。でも思い直して、絶対レギュラーに入ってやるとくらいついていきました。当時プロになろうと思っていたんです。高校に入学する時も、プロになるには甲子園に行ける学校に行こうと考えて、近所にあまりなかったので、遠距離通学にするぐらいだったら寮があって没頭できるところがいいということで決めた高校でした。まあ逃げ場もなかったですし、全寮制だし、自宅は遠いし、山の中みたいなところだし、監督とかコーチよりもまず先輩が身近で目を光らせていましたから。でもそういう経験をさせてくれてよかったと思っています。あれ以上厳しい生活はこの先絶対に来ませんから、どんなことになっても耐えられます。

― そこで耐えた自分に対して自信というのもあるのだと思います。たくさんアルバイトしてもハードワーキングしても、あの時に比べたらというような感じでしょうか。

高校野球部での大変な時期は実質1年ちょっとでしたけれど、あの上下関係というか、プレッシャーの中で耐えたことを思えば楽勝でした。次元は違いますが、戦争体験とかでも同じことおっしゃいますよね。あのひもじい思いとかあの大変な時代に比べれば今なんてって。

― 高校生の頃のお話は伺いましたが、小さい頃はどのようなお子さんだったのですか?

ごく小さい時は、とてもおとなしい子でした。全然しゃべらなくて、畳の縁にミニカーを走らせて、妄想でずっと遊んでいました。祖母に連れられて親戚の家に行ったり昔祖母が勤めていた学校に行ったりしても、隅っこにずっといて、ミニカー2、3台あれば何時間でも黙って待っていました。それで言うと、もう1つ特徴として挙げられるのは妄想家ということです。妄想を描いてそれを現実にしたいという気持ちが強いんだと思います。それが25年の人生計画に書いたことが実現してしまったところでますますスイッチが入ったんでしょうね。こうやって段取り組んでやると妄想が現実になるんだって。

それから、記憶力は昔からよかったです。車が好きで当時の車種は全部記憶していました。幼稚園の時の身長だと車の中とか見えないんですけれど、形とかホイールのマークとか見える範囲のもので「これはトヨタのカローラの何年式」とわかりました。学生時代にも友達やお店の電話番号を100件、200件覚えていました。記憶力がよいということもあって、自分の頭の中をすりぬけてしまうような、なんてことはないものが自然と頭の中に入ってきて記憶に残ってしまうんです。通りすがりのどこかで見たものが「この辺にこういうのない?」と聞かれると、別に注目して情報収集しているわけではなくても「確かこの辺にあるよ」と出てきてしまうんですよ。昔は通りすがりの看板に書いてある電話番号なども頭に残っていました。「あそこの店に予約したいんだけど、誰か走って予約してきて」「ちょっと待って、あそこ電話番号たぶんこれだよ」という具合に。年と共に若干の陰りは感じますけど、結構今でもありますね。本を読んだら「どこかでこれ読んだ気がする、ああ、あの本に書いてあった」というのがぱっと出てくるんですね。

あとは、まねするのが得意なんですよ。学校の先生のものまねも大得意でした。だから研修を受けてもすぐにまねができるんです。ソニー生命の時の研修課長の方とは今でもつきあいがあっていろいろ教わっているんですけれど、当時はその人から教えられた研修内容をそっくりそのまま翌日自分の代理店にやっていました。「吸収するのが早いね」という言い方をしてくれましたけど、言い方を変えるとパクリ上手というか、たいして深い知識はなくても鋭い突っ込んだ質問がなければ、そっくりそのままやることはすぐできます。営業部では他の人の担当していた代理店の分もまとめて研修担当をやっていました。

― これまでのお話を伺って、自分で目標を立ててやるとか、日々これをやりきるまで帰らないとか、自分を律する力が強いのではないかと思っています。関連して、身体づくりの面でも何か継続してやられているのでしょうか?

11日後に100キロ走る予定で、いま調整しているところです。四国の四万十川のウルトラマラソンは今年で4年目になります。マラソンは8年前から始めました。ドクターシーラボの時90キロ近くまで太ったんですよ。お酒も飲むしご飯は夜中でも食べるし、寝食忘れて働いていた頃だからシャワーだけ浴びに家に帰っていたんですよ。家に着いてシャワー浴びる前にビール2、3本開けて飲んで、そのまま結局寝ちゃって、あわててシャワーだけ浴びてまた会社に行くとか、そんな生活だったんです。まあ太りますよね。90キロになって、その時に二日酔いのような状態や寝不足でぼーっとしている状態で社長を任されていました。社長として大事なことは何かと言うと判断で、正しい判断をいかに早くするか、間違っていたらいかに早く修正するか、それにつきるなって思っていたんですね。大きい課題としては後継者を育てることだと今でも思うんですけれど、日頃の仕事としては判断が最優先だと考えた時に、正しい判断がこんな二日酔いの状態でできるんだろうかと、スピード感は自分で納得しているんだろうかと振り返って、これを続けていてはだめだと思ったんです。それで、お酒をやめようとか、甘いものも好きだったのでやめようとか、とんかつ、コロッケ、てんぷらみたいな食生活でしたから揚げ物もやめようとか、自分で始めたんですよ。それからいろいろ食事のことや消化のことについて勉強して、やるんだったら徹底してやろうと決めました。

極端なんですよ。やるんだったら思いっきりやる、徹底的にやる。だから高校でも全寮制の学校を選んでしまっていたんですね。やらないんだったら一切やらない。ですので、消化の勉強を始めた時にベジタリアンになりました。ちょっとビール1杯だけは僕の場合はビール1ダースになってしまって歯止めがきかないのがわかっているので、だったらゼロにしてしまおうと。週に1回だけ肉はいいとかにするとやがて毎日になるので、一切なしにしてしまったほうが楽なんです。

それだけだと不十分なので、運動も当然やらなければいけないなと、やるんだったらマラソン走れるぐらいやろうと思いました。これもまた自分の特徴として目標設定をすぐにするから、じゃあいつ走ろうかと、3ヶ月後ぐらいにできたら結構いいんじゃないのと決めて、実際3ヶ月後に4時間50分でしたけれどマラソンを完走しました。その頃には60キロぐらいになっていましたね。それができるようになると今度は次の目標設定を、もっと距離を伸ばすか、タイムを縮めるか、年間に走る本数を増やすか、さあどれにしようと。よし、もっと長い距離を走ってみようということで、100キロマラソンをそこから2年後には完走しています。次はどうしたかというと、完走して自分だけ満足してもいけないので、それにチャリティをからめようということで、賛同してくれる人を集めてやりました。困っている人を助けたいという自分のミッションのところにもつなげていこうと。それが100キロマラソンを始めて2年目のことです。

― もともとは二日酔いなどでは良い判断ができないということだったのですが、やり始めて、身体の調子も良くなって、ビジネスのほうも変わりました?

劇的に変わりました。それからものすごく新しいことにチャレンジするアイデアが出てくるようになりましたし、その頃は働いていて疲弊していましたけれど、今のほうが元気ですからね。疲れないし眠たくならないし、悪いことは何もないですね。食欲を抑えるのが皆さん大変だと思うんですけれど、私の場合は百かゼロなので大丈夫でした。

― 他にも何かトレーニングなどはされているのですか?

普段はランニングだけです。昨日も大阪出張でしたけどシューズを持って行って大阪で走ってきました。今日もこれから福岡ですけれど、荷物の半分はランニングの道具です。ここ1ヵ月ぐらいで395キロ走りました。一応700キロ走って当日を迎える計画だったのですが、先々週中国から帰って来て1週間くらい体調崩して走れなかったので、もう計画が崩れているんですけど、挽回しようと思ってここで走りすぎると脚を傷めるので、タイム狙いでなく完走狙いに目標を修正しました。

目標を立ててなぜやりきれるかというと、やりきれない時の不快感のほうが大きいからです。やるって決めたのにやらない自分が許せない、みたいなところがあります。頭がドSで身体がドMなんですね。中国で日本語の連載を書いているんですけれど、昨日締め切りだったんですね。夜9時に大阪から帰ってきた時点で、何も書いてなかったんですよ。メール送って「ごめん1日伸ばして」って言おうかなって思っている自分がもういやなんです。今日の朝までに着いていれば一応OKじゃないですか。今日この取材もあるし福岡行かなければいけないし、走りたいし、だとしたら徹夜してでも絶対書いてやるということで結局0時前には終わりました。そんな感じです。眠いけれどやるしかない。これを放っておいてメールして寝るっていうのはいやだ。そして、朝5時に起きで走るみたいな生活です。

インタビューを終えて

池本さんの超人的な記憶力や直感的な見通し力は天性のもので、誰にでもまねのできるものではありませんが、おばあさまの影響による困った人の力になりたいという根底にある思い、高校野球部で培った忍耐力、目標設定して計画を立ててやりきる姿勢があったからこそ、経営者として困難な状況の中でも成果をあげてこられたのだと思います。まねをするのがお上手で、周囲の人や研修から学んだことをそのままやってみることができるということも、経験が次の経験に連鎖となって活かしていけるという意味で、とても有効なことであると再認識しました。

仕事以外でもベジタリアン、100キロマラソンなど、とにかく自分に対して厳しくストイックなところ、その徹底ぶりには驚かされました。中学の時からプロ野球選手になるために全寮制の高校を選び、大学ではプロになれそうもないならとあれほど頑張った野球をスパッとあきらめるところの潔さは社会人になる前からのものでした。「頭がドSで身体がドM」至極名言です。

インタビュー:組織行動研究所所長 古野庸一 /文:主任研究員 藤村直子
協力:株式会社 経営者JP 代表取締役社長・CEO 井上 和幸 氏
※本インタビューは2010年10月6日に実施したものです。

 

PROFILE

池本 克之(いけもと かつゆき)氏 株式会社パジャ・ポス代表取締役

1965年神戸市生まれ 日本大学農獣医学部卒業
資金調達、海外ホテルマネージメント、生命保険営業の後マーケティング会社の設立、通販会社の経営を経て、ドクターシーラボ、ネットプライスなどの社長を経験
2007年11月より現職 戦略コンサルタント

●著作
『プロフェッショナルリーダーの人を見極め、動かし、育てる法則』(ダイヤモンド社)
『オバマ「勝つ話術、勝てる駆け引き」』(講談社)
『上場請負人と呼ばれるプロ経営者が書いた社長の勉強法』(アスコム)
『ゼロからはじめる ネット通販の教科書』(ユナイテッド・ブックス) 他

●講演、メディア出演多数
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