第1部 エビデンス・ベースドHRMとは
<図表1>人事データ分析の活用に取り組んでいる、または取り組む予定である企業の割合

出所:ピープルアナリティクスサーベイ2019調査結果 人材データ活用の最前線―HRデータからピープルデータへ―
エビデンスを根拠とし、人々が協力し合うことに価値を置く
入江:最近、人事の質を高める方法として注目されているのが、「エビデンス・ベースドHRM」です。「エビデンス=証拠・根拠」に基づくHRMのことです。HRMを含む経営領域では「エビデンス・ベースド・マネジメント」と呼びます。現在は、医療・政治・教育など、さまざまな領域で「エビデンス・ベースド・プラクティス」が進んでおり、エビデンス・ベースド・マネジメントやエビデンス・ベースドHRMもその潮流に乗った動きです。図表2が、エビデンス・ベースド・マネジメントのプロセスです。このプロセスを繰り返すことで、良い成果を得られる確率を高めていきます。
エビデンス・ベースド・マネジメントでは、きちんとした事実や根拠を何よりも重視します。例えば、革新的なアイディア、企業の成功のストーリー、カリスマ経営者のマネジメント手法など、一見魅力的なものは数多くあります。しかし、それらは必ずしも再現性が確認されたものではありません。このようなことに対して、データによる検証などのエビデンスに基づいて、何を取り入れるのかを吟味するのです。
<図表2>エビデンス・ベースド・マネジメントのプロセス

出所:Barendsら(2014)をもとに筆者作成
エビデンスは4種類に分けられる
入江:エビデンス・ベースドHRMのエビデンスは、「科学的知見」「組織の実態」「専門家の実践知」「ステークホルダーの価値観・関心」の4種類に分けられます(図表3)。
「科学的知見」とは、経営学を中心とした学術研究から生み出される知見のことです。例えば、「仕事の要求度―資源モデル(JD-Rモデル)(※2)」という学術研究成果は、ワーク・エンゲージメント向上に応用することができます。エビデンス・ベースドHRMでは、このように経営学が蓄積してきた多様な知見を活用することで、意思決定につなげていきます。
「組織の実態」とは、従業員数・欠勤数・従業員満足度など、組織や構成員の実態を表すデータのことです。最近は、タレントマネジメントや人的資本の情報開示が進み、より豊富なデータを収集する企業が増えています。また、ピープルアナリティクス・HRアナリティクスによる組織の実態データの積極的活用も進んでいます。
「専門家の実践知」とは文字通り、経験豊富な専門家が実践的に蓄積してきた知のことです。エビデンス・ベースドHRMでは、勘と経験からの脱却を目指すのではなく、専門家の実践知を重要なエビデンスの1つと捉え、積極的に活用します。実践知は、長期間さまざまな状況における経験を積み、内省を通じて形作られたものです。決して単なる思いつきではなく、むしろ豊かな根拠に基づいているのです。例えば、取り上げた課題に本当に着目すべきか、そのデータは現場の真実を映しているのか、科学的知見を適用した解決策が本当に現場で機能するのかといったことを判断する際、専門家の実践知が重要な役割を果たします。
「ステークホルダーの価値観・関心」とは、経営者・従業員・株主など多様なステークホルダーの見方や考え方、興味の度合いのことです。エビデンス・ベースドHRMでは、「経営の意思決定が従業員にどのような影響を与えるか」という倫理的配慮や、従業員・株主などの多様な視点から考えることで意思決定や施策の質を高めることが欠かせません。ステークホルダーの価値観・関心も重要なエビデンスなのです。
※2 成長の機会などの「仕事の資源」、自己効力感などの「個人の資源」、また、負担感などの「仕事の要求度」が、ワーク・エンゲージメントに与える影響などをモデル化したもの
<図表3>4種類のエビデンス

出所:Barendsら(2014)をもとに筆者作成
「人事データ活用に関する実態調査」の分析結果について
入江:私たちリクルートマネジメントソリューションズは、2023年3月に「人事データ活用に関する実態調査」を行い(※3)、会社勤務の人事担当者325名(本社人事227名・部門人事98名)から回答を得ました。その分析結果の一部を紹介します。
図表4は、多くの企業が、計測指標として「教育投資に対するリターン」を今後重視したいと考えていることを示しています。つまり、多くの企業が今、教育投資に対するリターンに興味を持っており、どのように計測すればよいかに悩んでいるのです。人的資本経営のポイントの1つが、教育投資とそのリターンにあることが垣間見えます。
※3 リクルートマネジメントソリューションズ(2023)「人事データ活用に関する実態調査」
<図表4>計測指標として「教育投資に対するリターン」を現在重視しているか、今後重視したいか

図表5は、今後取り組みたいことのなかから特徴的な項目を抜き出したものです。多くの人事の皆さんが「従業員のエンゲージメント・働きがい」や「成果を上げている管理職・一般社員の特徴」の把握に興味を持っています。「360度フィードバック(多面評価)」は、本社人事の興味が特に高くなっています。組織横断プロジェクトなどが多くなったために、上司1人では部下の評価ができなくなり、360度フィードバックを求める企業が増えているのだと考えられます。一方、部門人事の皆さんは「離職防止」が気になっています。現場に近い人事ほど、リテンション施策の必要性を強く感じているのでしょう。
<図表5>今後取り組みたいこと

図表6は、人事データ活用に関する役立ち度の認識の特徴的な項目です。多くの人事の皆さんが、データ活用によって「人事業務の効率化」が進んでいることを肌で感じています。本社人事の多くが、データ活用に「意思決定支援」効果があることも感じています。本社人事が、経営・人事の意思決定に直接関わる部門だからでしょう。一方で「従業員の主体的な選択のサポート」については、そこまで高い効果が上がっていないようです。人事データをキャリア自律に活用する施策については課題があるようです。
<図表6>人事データ活用に関する役立ち度の認識

図表7は、人事データ活用における悩みで目立った項目です。「人事スタッフの分析・活用スキル」「社内への開示内容・範囲」「従業員の関心の低さ」に悩む人事が多いことが分かります。人事データ活用を始めてから日が浅い企業が多く、まだまだ社内で十分には浸透していない様子が読み取れます。
<図表7>人事データ活用における悩み

以上で、私の講演は終わります。第2部は、LINE開発部門のHRBPを担当し、エビデンス・ベースドHRMを実践する麻生朋宏氏から具体的な企業事例をお話ししてもらいます。
第2部 人事データの戦略的活用で現場との対話を生む
約1200名の開発組織を担当する「攻めの人事HRBP」
麻生:私はもともと1社目の企業で、採用・評価運用・新人事制度導入など人事業務を幅広く経験した後、2016年にLINEに入社しました。当初はCoE(本社人事)として全社サーベイや評価運用を担当しており、その頃から独自に開発組織向けのHRデータ活用を行っていました。2018年から、公式に開発組織担当のHRBPを兼務することになり、開発組織向けの制度企画がメイン業務となりました。私のHRBPキャリアの始まりです。
コロナ禍の2020年頃からは、社員面談や労務対応の比重を増やし、個別組織の課題対応をメインにしました。そして2022年から、開発組織全体に向けた人材戦略の提案と実行に力を入れるようになり、今に至ります。おおざっぱに言えば、人事オペレーション・CoEなどの「守りの人事」から、HRBPという「攻めの人事」に移行するキャリアを送ってきました。
LINEの場合、事業や機能ごとに別々の開発組織があります。私はその開発組織すべてを担当してきており、子会社を含む国内約1200名がエンジニアHRビジネスパートナーチームのサポート対象です。
データ分析結果に基づいて現場と対話し、問題を見極める
麻生:私たちLINEでは現場を支援するために、オンボーディング支援、社内公募制度、パーソナリティ診断、パルスサーベイ、タレントマネジメント、オンラインコミュニティなど、人事データの活用や組織力向上のための取り組みを行っています。
ここでは2つの実例を通して、私が具体的にデータをどのように活用し、問題解決につなげているかを簡単にお話しします。1つ目の実例です。私はあるときデータを見ていて、「組織Aが他組織に比べて早期退職者が多い」ことに気づきました。この分析結果に基づき、現場と対話したところ、組織Aには比較的社歴の長いメンバーが多く、業務が属人化している傾向がありました。また、新たな仲間のオンボーディングに不慣れな側面も見えてきました。これらを踏まえて、「組織Aのオンボーディング支援」を行い、組織長と協力して新たな仲間のサポートに力を入れました。このオンボーディング支援はすぐに効果を発揮し、組織Aの退職者は目に見えて減りました。
次は2つ目の実例です。私はあるとき、それまで問題視していなかった組織Bで、「エンゲージメントとキャリア満足度だけ、社内平均よりも低い」のに気づきました。このときも分析結果を根拠として、組織Bの組織長や経営陣と対話を重ね、問題を見極めていきました。組織Bの場合は、組織長が他組織との兼務で100%の力を発揮できておらず、キャリアの長い人材も不足していて、組織を束ねるリーダーシップが不足していることが見えてきました。そのため、業務遂行がうまくいかず、メンバーのエンゲージメントやキャリア満足度を下げているようでした。そこで私は、今度も組織長たちと協力して、「組織長の権限委譲とリーダー人材育成」を進めました。ほどなくして、組織Bのエンゲージメントとキャリア満足度は高まっていきました。
データに基づいて経営と対話を重ね、組織全体を改善する
麻生:組織Aも組織Bも、全員がベストを尽くしていました。それでも2つの事例のように、組織にはさまざまな不整合が起こります。2つの事例とも、誰かが特別悪かったわけではありません。それでも組織には、こうした問題が発生するものなのです。
だからこそ今、人事データを活用できるHRBPが現場に必要とされています。HRBPが第三者として客観的・横断的にデータを収集・分析し、現場の当事者が気づいていない不整合を発見したり、当事者だけでは改善しにくい問題を解決したりする必要があるのです。
HRBPがデータを活用できる対象は、現場だけではありません。データに基づいて経営と対話を重ね、組織全体を改善していくのも、HRBPの重要なミッションの1つです。現場へのデータ活用は、いわば問題の「火消し」です。一方で、経営へのデータ活用は、そもそも不整合が起きにくい組織にするにはどうしたらよいかを考え、火が起こる数を減らす取り組みです。
例えば、組織のカルチャーや強みが、組織の変化に伴い、いつの間にか不整合を起こし始めることがあります。その不整合に気づいたのならば、不整合の発生プロセスを分析・レバレッジポイントを特定し、全体的に問題が起きにくい組織にするにはどうしたらよいかを考え、提案・実行するのです。
人事データを活用する際には充実したデータ基盤が不可欠
入江:最後に、2人で軽くお話ししましょう。麻生さんは、なぜこのようなデータ活用ができるようになったのですか?
麻生:1つは、HRBPになって現場との距離が近くなったことが大きいです。私はCoE時代からデータ分析をしていましたが、そのときは現場と対話する機会がなく、こちらからメッセージを出す勇気がありませんでした。ところがHRBPになり、現場と日常的に話すようになってからは、彼らがどのような情報やメッセージを求めているかが分かるようになりました。現場との距離が近くなったことで、データ分析を問題発見や解決につなげられるようになったのです。
もう1つは、充実したデータ基盤の存在です。LINEは、人事関連のデータを一元的に利用できる、統合データ基盤を構築しています。このデータ基盤を使えば、データの可視化や分析結果の共有を極めて簡単に行えます。私がこうして現場や経営に分析結果を見せ、問題の見極めや解決に介入できるのは、HR Data Lakeがあるからだといっても過言ではありません。人事データを活用する際には、こうしたデータ基盤が不可欠だと思います。
入江:現場がデータ分析に抵抗を感じるようなことはありませんでしたか?
麻生:データ活用を社内に広めていくときには、コツがあります。それは、理解ある組織長や組織を見つけて、まずはその組織にデータ活用を試験的に導入するのです。そうやって「お試し」で始めて、草の根的に広めていき、気づいたらデータ活用が当たり前になっていた、という状況を作ることをお薦めします。そうすれば、社内の抵抗感は少なくて済むはずです。
入江:データ活用の際に大事にしていることは何ですか?
麻生:「信用」です。なぜなら、HRBPはさまざまなステークホルダーの真ん中に立つことが多いからです。先に紹介した2つの事例でも、私は「組織と新しい仲間の間」や「組織長とメンバーの間」に立っていました。このように誰かと誰かの間に立つときには、両者から信用してもらう必要があります。どちらかに肩入れしたり、どちらかを感情的に責めたりすると、一方の信用を失います。ですから、私はいつもできるだけフラットかつ客観的に関わるようにして、両者の信用を得ることを目指しています。
【text:米川 青馬】
まとめ
人的資本の可視化は、人的資本経営を進めるために大切な取り組みの1つです。人的資本を可視化することで、自社の現状を把握し、目指す姿とのギャップを把握することができます。しかし、すべてがデータで可視化できるわけではありません。データだけでは分からないこともありますし、データに基づくだけではよい施策を行ったり、意思決定をしたりすることはできないと考えています。このような考えがあり、今回、多様なエビデンスに目を向けていただくべく、「エビデンス・ベースドHRM」という考え方をご紹介しました。
まさに麻生さんに紹介いただいた取り組みは、データを用いると共に、日ごろから現場に目を向け、それによって培われた持論や仮説を持ち、社内のさまざまなステークホルダーと協力しながら、有効な施策を行っている好例でした。データ活用の際に大切にしているのは「信用」というメッセージも、重みのあるものでした。
現在データ活用を進めているものの、まだあまりうまくいっていない方、これからデータ活用を進めようと考えている方は、データ活用にこだわりすぎると、かえってうまくいかなくなることもあるので、ぜひ今回の内容を参考に、さまざまなエビデンスを有効に活用していただければと思います。
【HR Analytics & Technology Lab 所長 入江崇介】
この記事で引用した調査「人事データ活用に関する実態調査」
関連する記事RMS Message vol.70 特集1 「エビデンス・ベースドHRM ─対話する人事」(2023年5月発行)
座談会2
「ピープルアナリスト×HRBP の本音 人事データの戦略的蓄積がHRBPと事業現場の対話を生み出す」
バックナンバー
キャリア自律とエンゲージメント向上にむけて 個人選択型HRMの実際とこれから(2022年9月開催)
アフターミドルの可能性を拓く〜ポストオフ・トランジションを促進するには〜(2022年6月開催)
キャリア自律施策の展開〜なぜキャリア自律が進まないのか〜(2022年3月開催)
自律とエンゲージメントを促進するために 変わるマネジャーの役割(2021年12月開催)
コロナ禍で注目される自律的な働き方とエンゲージメント(2021年9月開催)