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インタビュー

東京大学大学院 古田徹也氏

仕事とオフのあわいに生じる遊びから新たな何かが生まれる

  • 公開日:2024/03/18
  • 更新日:2024/05/16
仕事とオフのあわいに生じる遊びから新たな何かが生まれる

ウィトゲンシュタインに関する著作などで知られる哲学者・古田徹也氏は「遊びの哲学」にも詳しく、2023年にはゲンロン・セミナーで「遊びを哲学する─日常に息づく言語ゲーム」という講義をしている。古田氏に、「大人の遊び」や「会社の余白」について伺った。

遊びこそが文化を生んだクリエイティビティの源泉だ
遊びとは何かと何かのあわいに生じるものである
職場の遊び=雑談は会議室とオフィスのあわいで起こる
出会いと雑談を生み出す新たな装置や仕組みが必要では

遊びこそが文化を生んだクリエイティビティの源泉だ

私はウィトゲンシュタインの研究をしてきましたが、有名な「言語ゲーム」という概念はドイツ語では「Sprachspiel」と書きます。Spracheは言語で、Spielがゲームですが、Spielは遊びや戯れ、演技や演劇、揺らぎなども意味します。ウィトゲンシュタインは、私たちの日常生活のコミュニケーションをSprachspielとして理解しようとしました。仕事上のコミュニケーションもSprachspielと考えることができます。ルールを作ったり役割を演じたりするという意味で、仕事にもSpiel=ゲームや遊びや演技の要素があります。しかし、だからといってSprachspielはゲームや遊びや演技そのものではありません。

ウィトゲンシュタインの遊び論もいろいろと面白いのですが、今回はこのくらいにして、本題に入りましょう。

最初に遊びを本格的に哲学したのは、ヨハン・ホイジンガです。1938年に『ホモ・ルーデンス』を発表し、遊びの相のもとに文化の成立と展開を捉え直しました。

ホイジンガは、人間の文化はそもそも遊びから生じているのだ、「はじめに遊びありき」なのだと語りました。遊びこそがクリエイティビティの源泉だと考えたわけです。人間は遊びによって、既存の型から外れて新たな何かを生み出したり、固定化した役割から逸脱して新たな役割を創ったりしてきた、と見たのです。ビジネスのヒントにもなる考え方ではないでしょうか。

次に、ロジェ・カイヨワがホイジンガをリスペクトしながら批判的に遊びの価値を考察し、1958年に『遊びと人間』を書きました。カイヨワは遊びの不変の性質として「競争・運・模擬・眩暈」の4つを提示しました。面白いのは「眩暈」が入っていることです。眩暈の遊びとは、例えばブランコ遊びのようなものです。大人の場合は、お酒に酔うこともあてはまりますね。

遊びとは何かと何かのあわいに生じるものである

ホイジンガやカイヨワ、あるいはこれから紹介する人たちが遊びについてさまざまに語っていますが、ビジネスパーソンの皆さんにとって特に大事なことがいくつかあります。

まず、遊びは本来は日常生活や仕事の埒外にあり、日常や仕事の必要や利害とは結びつかないはずです。遊び自体が目的であり、遊びそのものが人をとりこにするわけです。この点で、遊びと仕事は明確に分けられます。

次に、遊びには本来「区切り」があります。遊びは典型的には区切られた時空間のなかで行われるものです。例えば、子どもはよく公園で遊びますが、公園から出て帰ると遊びをやめるわけです。このとき自由に切り上げることができることが、遊びの条件の1つです。人間関係があって簡単にやめられなかったり、ゲーム中毒になったりすると、それはもう遊びではなくなってきます。

それから、遊びには「安全や安心」が必要です。臨床心理学者の東畑開人さんは『居るのはつらいよ』で、「心が逼迫しているとき、僕らは遊ぶことができなくなる」「[砂場で遊んでいる子供にとっての、近くにいる母親のように]遊ぶためには、誰かが心の中にいないといけない」と述べています。十分に安全な場でなければ、人は安心して遊べません。子どもは保護者に見守られているから、公園で夢中になって遊べるのです。

カイヨワは『遊びと人間』で、日常生活は数多くの危険を覚悟しなければならない「一種のジャングル」であり、「予期もせず、みずから欲したわけでもない困難、災難、不運に立ち向かわなければならぬ」が、それに比べて遊びは「嫌なら何時でも身を引く自由がある」のであって、遊びは「一種の避難所」にもなっていると言っています。確かに特に大人の遊びは、一時的な現実逃避になっていることも多いのではないでしょうか。

さらに、東畑さんが書くように「遊びとは何かと何かのあわいに生じるもの」です。遊びは主観と客観のあわい、創造と現実のあわい、演技と本気のあわい、自己と他者のあわいに生まれます。遊びは「真剣さと緩さのあわい」に生まれるものでもあります。ゲームは真剣に遊ばなければ面白くありませんが、負けたときに本気で怒ってしまうと、遊びから離れてしまいます。遊びは実際には、何とも微妙なところに成り立つものなのです。

職場の遊び=雑談は会議室とオフィスのあわいで起こる

以上をふまえて、「大人の遊び」や「ビジネス上の遊び」について考えてみましょう。

大人の場合、心に完全に余裕があることは少なく、純粋に遊ぶのは難しいのが実情です。大人は子どもと違い、「不純な遊び」を日常的に行っているのです。知り合いとゴルフに行けば、接待ゴルフでなくても、何かしら配慮や忖度の要素が絡んでくるでしょう。大人の純粋なゴルフ遊びは難しい。それは他の遊びも同様です。

ウィトゲンシュタインは、遊びの規則は曖昧であり、「我々がSpielをするときには、『流れのなかで規則をつくりあげる』ケースもあるのではないか。それから、流れのなかで規則を変えるケースもあるのではないか」と『哲学探究』に記しています。しかし、それは子どもの遊びの場合であって、大人の遊びは、スポーツでもゲームでも何でもそうですが、たいがいルールが厳密に決まっています。これも、大人がもはや自由自在に遊ぶことができないということの、1つの表れかもしれません。つまり、明確なルールの助けを借りないと、純粋な遊びに入っていくことができないのです。

では、大人の不純な遊び、特に職場でのそれは何かといえば、なんといっても「雑談」でしょう。雑談には目的がなく、それ自体が楽しみであり、いつでも切り上げることができます。

雑談は、「会議室とオフィスのあわい」にある廊下や給湯室、休憩所や喫煙所などで、ちょっとしたときに起こります。それから、「仕事とオフのあわい」に存在する飲み会や社員旅行、仕事仲間とのゴルフやスポーツの場などで起こります。そうしたあわいが、大人たちにとって、ある程度は安全な場所なのです。職場内の他の場所では、雑談は生まれにくいはずです。大人の日々の遊びはこうやって、職場のあわい、仕事とオフのあわいに生み出すほかにありません。

最近は、若者が飲み会は仕事かどうかをはっきりさせたがると聞きますが、白黒をつけたらもう遊びではなくなります。白黒はっきりしない曖昧で微妙な場だからこそ、私たちは飲み会のなかで、仕事中には見せない意外な一面を仲間にさらけ出したりできるのです。このようなあわいを「職場の余白」と呼んでもよいでしょう。多くの会社では、職場の余白が雑談を生み出し、職場内の新しい動きにつながったりすることがよくあるはずです。遊びこそがクリエイティビティの源泉なのですから、それは当然のことです。

実は私たち研究者も、その点はまったく同じです。学会の会場の廊下や、学会後の懇親会・二次会などで交わしたちょっとした雑談が、新しい研究につながったりすることが多いのです。

リモートワークでは雑談がしにくいですが、それはオンライン上にあわいがないからです。先日ある企業の人事から、普段リモートワークで働いていると、いざリアルで集まったとき、お互いに馴染むまでのアイドリングの時間が必要になると聞きました。内容の濃い話に入るまでに時間がかかるというのです。普段、オフィスに通って雑談をしていないと人間関係が薄まり、深い話がしにくくなるのだろうと思います。

出会いと雑談を生み出す新たな装置や仕組みが必要では

職場の余白は、全体的には減る傾向にあるように見えます。飲み会も少なくなっていると耳にします。喫煙所も多くがなくなりました。

これらが減った背景には、正しく真面目な理由があります。確かに、喫煙は身体に良くありません。周りにも迷惑です。それにタバコを吸っている人だけが頻繁に休憩するのは不公平でしょう。眩暈の遊びをする飲み会は不健康であり、さまざまなハラスメントの温床でもあります。社員旅行などの行事はムダに感じる人が多いでしょう。言い換えれば、あわいや遊びは、余剰・はみ出し・ムダなのです。効率性や生産性とは真逆のものです。しかし、そうしたあわいが減った結果、職場内の雑談が少なくなったのも一方の事実です。

職場の余白が減り、雑談が減ることは、クリエイティビティの喪失につながっている面があるはずです。また、組織やビジネスが効率性を追求しすぎて余白や遊びがなくなると、何か想定外のことが起こったときに、組織全体が対応できなくなる可能性があります。そのままでよいとは思えません。現代に合わせた形で、偶然の出会いとコミュニケーションを生み出す新たな装置、あわいと遊びを生み出す新たな仕組みが何かしら必要ではないかと感じます。

それから、職場に遊びを生み出すためには、やはり一定の安心・安全が欠かせません。大人は子どもほどの安全を手に入れるのは難しいですが、それでもある程度は安心できる場でなければ、伸び伸びと実力を発揮したり、好きな業務に没頭したり、新しいことにチャレンジしたり、気持ちよく遊んだりはできないのです。終身雇用は現代にそぐわないとよくいわれますが、だからといって職場での競争を激しくすると、遊びの要素が減ってしまうでしょう。研究者も、あまりに激しい競争のなかにいるよりも、安心と安全が確保されている方が、むしろ質の高い論文や新規性の高い論文を多く生み出せるように思います。遊べるだけの心の余裕を保てるような職場づくりも大切なことです。

【text:米川 青馬 photo:平山 諭】

※本稿は、弊社機関誌 RMS Message vol.73 特集1「仕事における余白と遊び」より抜粋・一部修正したものです。
本特集の関連記事や、RMS Messageのバックナンバーはこちら

※記事の内容および所属等は取材時点のものとなります。

PROFILE
古田 徹也(ふるた てつや)氏
東京大学大学院 人文社会系研究科・文学部 倫理学研究室 准教授

2008年東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。新潟大学准教授、専修大学准教授を経て、2019年より現職。『言葉の魂の哲学』(講談社選書メチエ)、『このゲームにはゴールがない』(筑摩書房)、『謝罪論』(柏書房)など著書多数。

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