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公開日:2023/09/25
更新日:2023/09/25

THEME ダイバーシティ

インタビュー三重大学 栗田季佳氏

障害者を排除しない社会は誰もが手助けを求められる社会だ

障害者を排除しない社会は誰もが手助けを求められる社会だ

三重大学 教育学部 准教授 栗田季佳氏は、インクルーシブ教育の視点から、障害と社会の関係、偏見や差別が生じる心のメカニズムなどを研究してきた。栗田氏の目には、日本の障害者雇用の現状、障害者の受け入れに関する日本社会の現状がどう見えているのだろうか。自身の経験談と共に伺った。

 

障害や問題は、周囲の見方にある



高校生のとき、『どんぐりの家』(山本おさむ・小学館)というマンガに衝撃を受けました。障害のある子たちと周囲のきれいごと抜きの関係が描かれたマンガです。

こんな子たちが登場します。ある子は一度口に含んだ食べものを出して、みんなに見せるクセがありました。周囲が止めてもいっこうにやめません。お父さんがあるとき、この子は「おいしいから食べて」と伝えているのだと気づき、口から出されたみかんを食べたら、その子が喜んだのです。別の子は、歩道橋に石を並べる習慣がありました。お母さんはある日、この子は石にきれいな夕陽や飛ぶ鳥を見せてあげたいのだと気づきました。障害や問題は、周囲の見方にあるのだと感じました。

受験勉強中で、学力の高さや努力に価値を置きながら窮屈さを抱えていた私は、このマンガを読んで、価値観を揺さぶられました。障害児が見ている世界を知りたい、と思ったきっかけです。

障害者と健常者を分けることそれ自体が偏見だ



大学で、障害者への偏見やステレオタイプを調べる心理学研究に出合い、障害者へのアンコンシャスバイアス(無意識の偏見)の測定を始めました。人はなぜ、自らの障害観にとらわれ、本人の発するメッセージになかなか気づけないのか、その認知の枠組みを知りたかったからです。

しかし私はあるとき、根本的な間違いに気づきました。それまでの私の研究は、障害者と健常者を分けて調査するものでした。そうやって特徴の一部を切り取って障害者として分類すること自体が、偏見だと気がついたのです。それ以降、私の中心テーマは「障害者と健常者を分けないためにはどうしたらよいのか?」に変わりました。

極端な見方かもしれませんが、私は特別支援教育そのものも課題の1つだと捉えています。なぜなら、小中高校と特別支援学校はもとより、通常学級と特別支援学級を分けることも、分断の原因になっているからです。通常学級の子たちからすれば、支援学級の子たちはやはり他人で、知らないことが決めつけを助長します。一緒に学んだり遊んだりして相手の人間性が見えてくれば、個別的な関係のもとで自然と助け合いも喧嘩も他の子どもと同じように起こるはずです。

同じことが企業でも起こっているようです。障害者雇用の皆さんは、他の社員とは違う特別な存在になってしまっています。特例子会社にはさらに明確な壁があります。この分類の問題をどうやって乗り越え、障害者を社会全体で受け入れるのか。私の最も大切な研究テーマの1つです。

障害のある人たちと付き合っていると、相手の障害以上に、性格や好みや考え方の方に目がいくようになります。人間の付き合いは、障害のあるなしでほとんど違いはないのです。障害がその人の中心にあるわけではありません。そう見ているのは自分自身です。必要以上に健常者と障害者を分けると、障害が強調されてしまいます。私はそのことに問題を感じています。

障害者のまなざしから能力主義を再考する



このテーマを突き詰めると、「能力主義」を再考することになります。なぜなら、障害者は能力観によって生み出されているからです。しかし、この能力は「健常者の想定する能力」です。ある能力がもてはやされるのは、その時代が規定する価値観です。その能力主義を見直す必要があります。

例えば、特別支援学級などの現場では「相手の目を見て、はきはきと挨拶しましょう」と教えます。しかし、これは健常者ベースの社会性であって、必ずしも障害者のそれは含まれていません。ある人は、相手とすれ違うときに歩き方が少しゆっくりになります。相手の存在を受け止めることが挨拶の意味であれば、これも一種の挨拶ではないでしょうか。障害者と健常者を分けないことは、さまざまな表現を認め、できないことを受容することでもあると思います。

現代社会は「ハイパー・メリトクラシー(超業績主義・超能力主義)」です。学歴・学力だけでなく、人間力、生きる力、社会性、コミュニケーション力も、すべて評価・測定の対象になりました。「正しい」挨拶ができる力もその1つです。近代の能力主義が極まった結果、1人が多様な能力をもたなければならない社会に行き着いたのです。

しかし、この社会は常に多様な能力を測り続けられるため、健常者にとっても息苦しく、しんどい場所です。障害者は、そこには到底入っていけません。だからこそ、障害者を分ける特別支援学級や特例子会社が存在するのだと思います。

私たちは共生社会のなかでありのままに生きていけばいい



障害者は、ハイパー・メリトクラシー社会に一石を投じる存在です。なぜなら、社会が障害者を受け入れるには、能力主義を横に置く必要があるからです。障害のある人たちを気持ちよく受け入れる社会とは、全能の人はおらず、すべての人が他者によって生かされているわけだから、個人の能力に過度に重きを置かなくていい、みんなでつながり合い支え合いながら、ありのままに生きていけばいい、われわれは人と人の間に存在していればいい、と考える「共生社会」です。

共生社会では、障害者だけでなく、誰もが困ったときに自分で抱え込みすぎず、周囲に助けを求め、頼ることができるでしょう。そうやってお互いに助け合う社会こそ、インクルージョン社会ではないでしょうか。それは皆が肩肘張らなくてよい社会です。そうやって能力主義を乗り越える共同体が、私たちの目指すものではないかと思います。

共生社会では、企業もすべての人を大切にすることを基本に置くでしょう。能力のある人だけを優遇するのではなく、障害のある人、育児中や介護中の人、精神的に弱っている人なども社内に含みながら、一緒になって前に進む組織体に変わっていくはずです。企業である以上、一定の能力は事業の根幹にあり続けるでしょう。しかし、その能力観を固定せず、できない社員から学びを得、成長できる企業が求められるのだと思います。

「あなたなりの研究論文」を書くプロセスが大切だ



最後に私自身の経験をお話しします。あるとき、私の研究室に所属していた学生が、自分は発達障害を抱えており、一般的なスタイルで卒業論文を書くのがどうしても難しい、どうしたらよいかと相談に来ました。この学生は熱心に研究しているのですが、アウトプットが苦手なのです。

私はその学生に「卒業論文の本質はあなたの学びの集大成の提出にあって、別に研究論文のスタイルに沿ったカッコいい文章を書くことが目的ではない」と話しました。そして、「たった一文でもいい。何か学びの集大成となる言葉を生み出すことができたら、あなたなりの研究論文じゃないか。それが難しければ、感銘を受けた本の一文を抜き出したっていい。それもあなたの研究論文といっていいんじゃないか」と伝えました。

能力と結果だけに着目すれば、その学生はまったく評価されずに排除されてしまうでしょう。しかし、プロセスに着目すれば、その学生なりの研究論文を作れるのです。ハイパー・メリトクラシー社会から共生社会に向かうためには、おそらくは社会全体、企業全体が、こうしたプロセス重視の柔軟性をもたなくてはなりません。障害者だけでなく、皆が助け合えるように社会構造を変える必要があるのです。ぜひ一緒に取り組みましょう。



【text:米川 青馬 photo:角田 貴美】

 
※本稿は、弊社機関誌 RMS Message vol.71 特集1「障害者雇用・就労から考えるインクルージョン」より抜粋・一部修正したものです。
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※記事の内容および所属等は取材時点のものとなります。


PROFILE
栗田 季佳(くりた ときか)
三重大学 教育学部 准教授

2013年京都大学大学院教育学研究科修了。2016年より現職。専門はインクルーシブ教育。『見えない偏見の科学』(単著・京都大学学術出版会)、『障害理解のリフレクション』(共編著・ちとせプレス)、『偏見や差別はなぜ起こる?』(分担執筆・ちとせプレス)などの著書がある。

障害者を排除しない社会は誰もが手助けを求められる社会だ
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