研究レポート

キャリア形成における責任という概念を鍵として

主体的なキャリア形成とはなにか -意志から責任への転回-

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主体的なキャリア形成とはなにか -意志から責任への転回-

キャリアは主体的に形成されるものだという言説は、もはや一般的になったといえるだろう。しかし、そもそも「主体的にキャリアを形成する」とはどういうことなのか。言い換えれば、キャリア構築における主体性とは何か、という問いである。本稿は、これまで曖昧なままで十分に議論されてこなかった、このテーマに取り組んだものである。

はじめに -歌舞伎俳優は主体的にキャリア形成しているか-

前回の研究レポートでは、自律的キャリアの議論が登場した背景から、自律的キャリア議論が企業の論理による議論と個人の論理による議論として展開されていることを指摘した(「なぜキャリア自律が進まないのか」)。本稿は、キャリアの自律性、主体性を問いとしている点は共通しているが、より「主体性とは何か」という問いに焦点を当てている。つまり、前回が前提となる背景の議論であったとすれば、本稿は、ゴールは何か、という議論である。

近年、キャリアは、個人の責任によって管理されるものであり、組織が取り扱う問題ではなくなってきたといわれている(Arthur, Inkson & Pringle, 1999; Baruch & Peiperl, 2000; Baruch, Szucs & Gunz, 2015; Clarke, 2013; Yan, Zhu &, Hall 2002; Lips-Wiersma & Hall, 2007; Lee, Felps & Baruch, 2014)。これは、典型的には「バウンダリーレス・キャリア」(Arthur & Rousseau, 1997)や「プロティアン・キャリア」(Hall, 1996)において示唆されており、一組織に縛られない、流動的で柔軟な個人主導のキャリア形成として描かれている。このような新たなキャリア形成のあり方を総称して、「ニューキャリア」という(Lips-Wiersma & Hall, 2007)。

日本においてもほぼ同様の論調で語られており、例えば花田・宮地・大木(2003)は、自律的なキャリア形成とは「他者のニーズを把握し、それとの調整を図りながら、自分自身の行動のコントロールを行い、自らを律しながら自己実現を図ること」と定義している。また、堀内・岡田(2009)においては「自己認識と自己の価値観、自らのキャリアを主体的に形成する意識をもとに(心理的要因)、環境変化に適応しながら、主体的に行動し、継続的にキャリア開発に取り組んでいること(キャリア自律行動)」と定義している。さらに、平野(2003)では「自分の価値観をベースにしたキャリアの重要性の認識および自己意志に基づく主体的で競争力のあるキャリア発達を意味しよう」と記述される。

日米の双方において共通して主張されていることは「個人が主導」し、それがゆえに「自己の価値観」や「意志」をベースとして開発されるものである、という点であろう。平易に表現すれば「やりたいことをやる、そのために努力し行動する」といったキャリア形成であるといえよう。こうした考え方に依拠し、是とした場合、突然ではあるが次のような質問にはどのように答えるべきであろうか。

「歌舞伎俳優は主体的にキャリア形成しているといえるか否か」

歌舞伎俳優は、生まれながらに歌舞伎俳優となることが相当程度に決まっている。ある程度の揺らぎもあろうが、道筋の多くが「自らの価値観」や「意志」とは無関係に決定しているといえる。自分で選択したわけではないのである。

しかし、このために、歌舞伎俳優は主体的にキャリア形成していないと断じることは、違和感があるのではないだろうか(先の論理に従えば、そうなるのだが……)。

自由意志と責任

キャリアにおいて自己決定が尊重されるのは、個人が基本的に自由な存在であり、その自由が尊重されるべきであるという考えが存在するからである。こうした考え方は近世から近代、そして現代へと移るなかで、人類が獲得してきた考え方であり、近・現代を形成する根本的な考え方の1つといえる(大澤, 2015; 佐藤, 2013)。つまり、ヒトは自由意志をもち、それは他者に侵害されないものである、という信条がルールや社会的慣習を決める上でベースとなっている。

自由意志(Free Will)は哲学や社会心理学といった分野で研究が蓄積されてきた。哲学においては、自由意志は、主に決定論(determinism)との対比を行いつつ、自由意志とは何か、自由意志は存在するのか、といったことが論じられてきた(佐々木, 2005; 鈴木, 2011)。一方、社会心理学においては、「自由意志は存在するか」に関する信念(自由意志信念)が社会的判断・行動とどのように関わるかといったことが検討されてきた(渡辺・太田・唐沢, 2015)。それぞれの研究の詳細は紙幅の都合で割愛するが、重要なことは、自由意志の議論においては、他行為可能性(alternative responsibility)と責任、特に道徳的責任(moral responsibility)が重要な役割を果たす(佐々木, 2005; 渡辺・太田・唐沢, 2015)ということである。ヒトが自由意志に基づいて行為を選択することができるとした場合、例えばあなたが今右手を挙げるか左手を挙げるか、それとも手を挙げないでいるか、どれを選択するかは完全にあなたの自由である。どの行為が帰結されるか決定されておらず、複数の行為が可能であり、その帰結は行為者自身によって決定される。こうした複数の行為が可能であることが「他行為可能性」であり、自由意志にとっての重要な条件であるとされてきた(渡辺・太田・唐沢, 2015)。他行為可能性があり、それによって自由意志が成立すると考えることで、道徳責任も成立するとされる。石を投げたことに責を問われるのは、石を投げないという他行為可能性が存在するからである。つまり、他行為可能性がなく、それ以外に選択しえなかった行為(例えば銃を突きつけられて命じられた、など)については、責任が発生せず、それゆえに、その行為は自由意志に基づく行為ではない。

一方で、道徳責任や自由意志にとって他行為可能性は本質的なものではないとする論者として、Frankfurt(1969)やDennett(2003)を挙げることができる。Frunkfurtは、行為の他行為可能性ではなく行為者性に道徳責任や自由意志が生じるとした。つまり、たとえその行為しか取りえない状況であったとしても、自らの理由に従って動機付けられた行為であったならば、その行為は自由意志に基づく行為であり道徳責任を有する、と考えるものである。この場合、そこに他行為可能性は存在しないが、しかし行為における道徳責任や自由意志は消去されない。またDennettでは行為を決定する際に合理的・反省的検討をできる能力と状態を有し、自らの行為に対しコントロールを有していることが重視される。あたかもサイコロによって行為が決定するようなランダムによる行為は、非決定論的な決定ではあるが、そこにはコントロールが存在しないがゆえに、Dennettにおいては自由な決定とはいえないのである(戸田山, 2014)。

以上のような、自由意志と責任、そして他行為可能性に関するさまざまな議論は、膨大な蓄積が存在しており、本稿でそのすべてに触れることは不可能であるし、またそれは本稿の目的から逸脱する。また本稿は、自由意志は存在するか、といった哲学命題を扱うものではない。本稿において、自由意志と責任、そして他行為可能性をめぐる議論から抽出したい含意は、以下である。1つに、自由意志は責任の概念が密接に関連している、ということ。次に、自由意志や責任は、必ずしも他行為可能性を必要とせずに存在しうる、ということである。そして、自由意志が他行為可能性や行為者性、コントロール性のいずれによって説明されるにしても、基本的には「自由意志が存在する。ゆえに責任がある」という一方向の因果を肯定していることが指摘できる。つまり、この因果においては、自由意志が措定されなければ責任は存立しえないことになる。上記に見てきたように、自由意志はその存在の可否を含め議論が続いており、この因果に従う限り、責任は自由意志の従属物であり、自由意志がないと結論されれば責任は存在しない。

しかし、果たしてそうであろうか。ヒトは自由意志ではない行為による帰結にも責任をもちうるのではないか。そして、それゆえに、行為に対する帰結に自由意志に関わりなく責任をもつことによって、逆説的に自由意志を獲得しうるのではないか。これが本稿において提言する「意志論」から「責任論」への転回である。

キャリアにおける「意志論」から「責任論」への転回

話をキャリアの主体性に戻そう。ここまで、自由意志や責任について哲学における議論を踏まえて論じてきたのは、キャリアという文脈における行為や選択、意志決定が、必ずしも自らの動機のみに基づかず、また他行為可能性を含むものではないからである。むしろ、多くの制約を受けながら決定せざるをえないといえるだろう。生まれた国、育った家庭環境、経済的状況、性差、母語といった人口統計学的な要素は、およそ自らによって統制できない。しかし、それでいてキャリア形成において一定の制約を与えているであろうことは疑いようがない。キャリアにおける選択、行為とは、基本的にこうした「自己以外からの影響や制約」を受けていることが通常であり、それらから免れえない。先の歌舞伎俳優は、その最たる形であるといえよう。

こうした場合、キャリアにおける選択や行為は自由意志に基づくとはいいづらく、自由意志の有無によってキャリアの主体性を語るのであれば、キャリアの主体性は非常に困難なものとなってしまう。これはキャリアにおける選択や行為が必ずしも自らに帰属しえないからである。しかし、キャリアの文脈において、自らに帰属すると考えられるものが存在する。キャリアにおける行為や選択による帰結の責任である。

キャリアにおける「意志論」から「責任論」への転回

キャリアにおける選択や行為によってもたらされる帰結は、基本的に個人にその責任が帰属されるだろう。それが、完全な自由意志に基づくものでないとしても、である。例えば所属する企業が倒産したとして、その倒産は個人の意志や行為によって決められたことではなく、本来的にその倒産の責任は個人にはない。しかし、倒産によってキャリアが断絶し、新たな就職を目指さなければならない状態となるという帰結は、自らによって責任を引き受けるしかないだろう。キャリアの文脈における選択や行為において、自由意志は必ずしも担保されないが責任は存在する、ということである。つまり、キャリアにおける主体性とは、自由意志をもち選択し決定しているかという点にあるのではなく、たとえ自由意志に基づかない選択や行為であったとしても、その帰結に対し責任をもち、引き受けているかどうかにあるのではないだろうか。

鎌田(2007)は日本長期信用銀行にて破綻を経験し、その回想のなかで、辞表を提出した部下との以下のようなやり取りを描いている。

「再考の余地はないのか?」
「何を再考しろと言うんですか。このまま泥船に乗っていても仕方ないですから」
「産銀(※)は泥船か?」
「そうでしょう。沈むのはもう時間の問題なんですから」
「自分たちが誇りを持って働いてきた銀行を、そんな風に呼ぶのはよせ」
「その銀行に裏切られたんじゃないですか、私たちは!」
「被害者意識しかないのか、お前は? 銀行員としての責任はどうなる」
「責任?」
「俺たちは裏切った側でもあるんだぞ。世間を裏切り、顧客や株主を裏切り、金融機関としての信頼を裏切った……その責任はどうなる?」
「それは上が勝手にやったことじゃないですか」
-中略-
「銀行マンの責任って何です? ここで残れば、そりゃカッコイイかもしれませんけど、じゃあ、部長は私たちの人生に責任を持ってくれるんですか!」

※著書の事例記述中では日本長期信用銀行は日本産業信用銀行とされていたため、原文に従って産銀と表記した。

鎌田自身も、こうした会話を通して、銀行が潰れるという事実に、銀行というシェルターに守られてきた自らの企業人生が崩れていく恐怖を感じると同時に、最後になれば誰かが何とかしてくれるかもしれないという、甘えがあったことを痛感するのである。

この事例は、組織に所属することで、個人に帰属しているはずのキャリアにおける責任が、あたかも組織にあるかのように錯覚させることを、よく表している。だからこそ、破綻が現実になったときに「裏切られた」と感じ、実際に破綻するまで「誰かが何とかしてくれるかもしれないという甘え」をもつことになる。キャリアにおける選択や行為の帰結の責任は個人に帰属するという言説は、当たり前のことのようでありながら、日常のなかでは意識されづらい。しかし、そこにこそ、キャリアを主体的に構築することの鍵があると思われる。

また、キャリアの主体性を意志から責任へと転回することの意義は他にも存在する。それは、キャリアの議論における「個人化」に歯止めをかけ、組織や社会と個人の関係のなかでキャリアの主体性を検討できるようになる、ということである。

キャリアの主体性を自由意志から捉えた場合、究極的には組織や社会との関わりは重要ではない。なぜなら、キャリアは自己の価値観に基づき自己の判断によって決定されるものだからである。フリーター問題を論じるときに、フリーターのキャリア志向として取り上げられる「やりたいこと志向」(安達, 2004)は、やりたいことを探しているという意味で、自由意志の立場から見れば主体的なキャリア形成であるといえる。しかし、彼らには職業意識の未成熟や主体性の欠如が指摘されており(安達, 2004)、また直観的にも彼らが主体的にキャリア形成しているとはいい難いであろう。しかし、自由意志としてキャリアの主体性を捉えるのであれば、これを否定できない。そこには、組織や社会との関わりを論じる理論的な必然性が薄らぐのである。

しかし、キャリアの主体性を責任として論じる場合、個人は自らの行為や選択による帰結として生じる組織や社会に与える影響、逆に組織や社会から受ける評価、批判を考えることも、そこに含まれるだろう。ここに、個人の問題である主体的なキャリア形成において社会や組織との関わりを検討する余地が生じるのである。

おわりに--責任をもつためには

以上、主体的なキャリア形成における主体性について、自由意志と責任に関する哲学上の議論から自由意志に依拠した主体性から責任に依拠した主体性への転回の内容と意義を論じた。今後の課題として、キャリアの帰結についての責任としての主体性をもつにはどうしたら良いのかを明らかにしていく必要があろう。

前節の事例において提示したように、組織に所属していると、キャリアに対し自身に責任が帰属している感覚(これを責任感とする)は希薄になることが考えられる。組織は、組織の職務遂行と引き換えに、従業員に対し給与や技能を与え、また職の保障(job security)を提供する。こうした職の保障を含め、組織からさまざまな支援が得られることは、組織への依存に繋がることが市村(2015)から示唆されている。つまり、こうした組織による支援が少なく、職の保障の程度が低いほど、責任感を感じやすくなるといえそうである。ただし、これについては、個人で操作できる内容ではない。また、単純に支援の削減を実施した場合、従業員個人の責任感は増大するかもしれないが、同時に離職意図の増大、組織コミットメントの減少が予測される(Eisenberger, Huntington, Hutchison & Sowa, 1986; Eisenberger & Stinglhamber, 2011; Rhoades & Eisenberger, 2002)ことから、実行が難しい。

一般的な会社人においては、組織と個人の関わり合いのなかでキャリアが形成されていくとすれば、組織側がキャリア形成において果たす役割や責任を論じる必要があるだろう。キャリア形成上の選択や行為の帰結の責任は個人にあるとしても、組織が一切関わらず、全く何ら役割も責任も有さないとは考えにくい。今後、キャリア形成における責任という概念を鍵として、組織と個人相互の関わりを探求することで、個人の責任感を促進し、組織や社会と関わりながらキャリアを主体的に構築する方法について明らかになっていくと考えられる。

引用・参考文献
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PROFILE
市村陽亮(いちむらようすけ)氏
株式会社リクルートキャリア
株式会社リクルートマネジメントソリューションズ 組織行動研究所 客員研究員

2011年、神戸大学において組織コミットメント研究に従事し、経営学修士号を取得。同年、リクルートエージェント(現リクルートキャリア)に入社。
ラインスタッフとして事業部のモニタリングや計上業務に従事したのち、新卒採用における斡旋事業のキャリアアドバイザー、リクルーティングアドバイザーを務め、2014年に退職。
現在は、神戸大学の博士課程に在籍。研究テーマは自律的キャリア、組織コミットメント、組織による支援の認知など。

※記事の内容および所属は掲載時点のものとなります。

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