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2030年の「働く」を考える

オピニオン#34 太田氏(前編) 2016/8/22 稼ぐ仕事の縮小、ひいては貨幣経済の縮小が幸せな未来シナリオではないでしょうか 総務大臣補佐官 太田直樹氏

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社会視点稼ぎを減らして、地域とのつながりや家族関係をより大事にする生活の方が、幸せに暮らせると思います。
社会視点「稼ぐことが良いことだ」という価値観が変われば、ガラリと世の中が変わる可能性が大きいでしょう。
社会視点コミュニティが「食べること」と「死ぬこと」を取り戻せば、新たな経済が動き出していくのではないでしょうか。

あるとき一斉に、皆がシェアオフィスで働きだしても
それほど驚くことではありません

それでは、「稼ぐ仕事、給与をもらう仕事が縮小すると同時に、仕事や生活に対する価値観が変わるとよい」という答えについて、詳しく聞かせてください。

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 AIやロボットが急速に普及するのは、ほぼ確実です。AIは現在、第3次ブームですが、これまでと異なるのは、分析対象となるデータが飛躍的に増えたことと、ディープラーニングによってAIの学習力が飛躍的に高まったことです。ロボットについて言えば、人件費の高騰と労働人口の縮小に直面している中国が、ヒトからロボットへ舵を切ったことが最近の大きな変化です。

 はっきり言えるのは、こうした技術進化が、飛躍的に生産性を上げるということです。そして私は、技術進化で生産性が上がるとともに、特に地域では、消費や貨幣経済の規模が小さくなっていくシナリオに向かうのがよいと考えています。つまり、AIやロボットが発達することで、多くの人が、稼ぐ仕事、給与をもらう仕事に携わる時間が短くなり、給与も減るのですが、その分、余った時間で、自治体やコミュニティに貢献して地域通貨を得る、あるいは自給自足や物々交換をするのです。そうなれば、貨幣経済の占める部分は自然と小さくなっていきます。

 実は、すでにこうした未来に向かう兆しが現れている地域があります。例えば、島根県の海士町では、稼ぎ(貨幣経済)、なりわい(地域の仕事)、自給自足を3等分にする社会実験を構想していると聞いています。また、先日、岡山県西粟倉村で地域の共創ワークショップに参加した際には、地域にシェアオフィスを作って、何割かの時間を村のために働いてもらう「定住しない地域おこし協力隊」を集める構想を話し合いました。

 私がなぜこのシナリオに魅力を感じるかといえば、幸福学の研究成果として、消費行動よりも「人間関係」や「つながり」が、幸せや豊かさに大きく影響することが明らかになっているからです。稼ぎを減らして、地域とのつながりや家族関係をより大事にする生活の方が、私たちは幸せに暮らせると思うのです。

都市では、そうした生活は難しいのではないかと思うのですが。

 そうですね。満員電車に揺られて出社し、遅くまで働いて、週末は家で休むような生活を送っている方々には、奇想天外なことを話していると思われても無理はないでしょう。

 しかし、実際はいくつか変化の兆しが見えています。1つは、リモートワークやテレワークです。先日ある経営者の方とお会いした際、もし東京のあちらこちらにシェアオフィスがある状態が実現されたら、多くの社員にシェアオフィスで仕事をしてもらい、本社は思いきり小さくしたいというお話を聞きました。極端な例に聞こえるかもしれませんが、 eメールもケータイも普及しておらず、連絡手段は固定電話かファックスで、ちょっとしたことでもわざわざ訪問して対面で話していた30年以上前のワークスタイルを考えると、あるとき一斉に、皆がシェアオフィスで働きだしても、それほど驚くことではありません。

 また、シェアリング・エコノミーの拡大も兆しの1つです。東京では、自動車の稼働率は平均3%しかありません。残りの97%に「所有」の価値を感じる方もいるでしょうが、大部分は、所有するよりもずっと安いコストで「利用」したほうがよいと考える時代が、早晩やってくるはずです。もっと言えば、技術の発展とビジネスモデルの革新は、地域はもちろんのこと、いずれは都市をも「限界費用ゼロ社会(モノやサービスが無料の社会)」に変えていくことでしょう。

 自給自足ということでは、日本版「ダーチャ」を推進するのは面白いと思います。ダーチャとは、ロシアで普及している農地つきセカンドハウスのことです。ロシアでは、都会暮らしの中間層のかなりの割合がダーチャを所有し、週末は郊外の家庭菜園で過ごしています。耕作放棄地や空き家の活用に本腰を入れれば、日本でも十分に実現性があるのではないでしょうか。

 なお、国の仕事に関わる一員として、名目GDP600兆円経済を実現しなくてよいのか、賃金上昇はどうでもよいのかといった疑問があるかと思います。しかし、ここでお話ししているのは、未来シナリオから逆算して考えたとき、どのような兆しに注目するべきかというお話ですから、そうした目標と矛盾しているとは思っていません。

 それから、まったく別のシナリオとして、テクノロジーをどんどん進化させていき、宇宙旅行やバーチャルツアーなどの新ビジネスを次々に創造していく「経済成長シナリオ」もあるでしょう。私としては、第4次産業革命で経済を発展させ、GDPをさらに拡大していくことを特に否定するつもりはないのですが、個人的にはそれにあまりワクワクしません。これ以上、貨幣経済を大きくしても、私たちが幸せになれるわけではないのですから。

イギリスで「EU離脱」の判断がなされたことは象徴的で、
世界の変曲点になるのではないかと思います

しかし、太田さんのような考え方は、まだ多数に理解されているわけではないと思います。そのことをどう考えていますか。

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 その意味では、先日のイギリスの「EU離脱」が象徴的だと考えています。あの出来事を「衆愚」であると捉える向きが多いですが、私は必ずしもそう思いません。都市は残留派が多く、地方に離脱派が多かったとか、離脱賛成に票を入れた国民は巧みに操作されたのだという分析がありますが、それは表面的なことだと感じています。それよりも大事なのは、多くのイギリス国民が、「グローバル化、貿易の自由化が進むのがよいと思わない」と判断したことだろうと思います。

 歴史上、世界の貿易量は決して一直線で増えてきたわけではありません。むしろ、1920年代から1970年くらいまで、貿易量は世界的に停滞していました。この間、実はアメリカをはじめとする先進諸国では、貧富の差が縮小傾向にあったのです。しかし、1970年代以降、グローバル化が進み、貿易量が増えてきました。それで進んだのは、国家間の格差縮小と、国内の貧富差の拡大です。つまり、グローバル化が進むほど、国内の貧富の差が広がるのです。こうした貿易量と貧富の差の関係はもう明らかになっています。

 私の印象では、功利主義が生まれた国に住むイギリス人は、世界で最も損得勘定にシビアな国民です。日常的に賭け事を楽しみ、何が自分の得になるのか、したたかに計算して動く人が非常に多い国だと感じています。その彼らがEU離脱を選んだ背景には、「これ以上貿易を増やしても、イギリス人は得をしない、幸せにならない」という冷静な計算があるのではないかと思うのです。今年4月に、イギリスで超党派の議員による「成長の限界に関する議員連盟」が発足したのも、こうした流れを先取りしたものかもしれません。

 古野さんのおっしゃるとおり、今回、EU離脱派と残留派が拮抗したことを見ても、そのように考える人がまだ多数になったわけではないでしょう。とはいえ、イギリスでこうした判断がなされたことは象徴的で、世界の変曲点になるのではないかと感じています。私たちもこの辺で一度立ち止まって、グローバル化と現在の資本主義の延長上に良い社会があるのかどうかを考えるとよいのではないかと思います。

では、今後の日本はどうなっていくと考えていますか。

 それは、日本人の「価値観」がどう変化していくかによるだろうと思います。今の資本主義を支えるのは「お金を稼ぐことは良いことだ」という考え方ですが、江戸時代までの日本では、お金を稼ぐのは必ずしも良いことではなく、「清貧」が尊ばれていた側面もあるわけです。その後、明治になって、福沢諭吉などが「稼ぐことはよいことだ」という価値観への変化を先導した歴史があります。

 先日、MITメディアラボ所長の伊藤穣一氏が、あまり働かなくてもいい社会における問いとして、次のようなことを書いておられました。「なんとか文化を変えて、お金を稼がない人にも尊厳と社会的地位を与えるような仕組みや制度を作り出せるだろうか?」「どうしてアマチュア作家やダンサーや歌い手が、金銭的な収益以外の形で成功を定義できるような組織原理を構築できないんだろうか?」「『食うに困るアーティスト』という表現を、過去の風変わりな比喩表現にできないか?」

伊藤氏が考えることは夢物語などではありません。稼ぐことが良いことだという価値観が変われば、伊藤氏が思うように、ガラリと世の中が変わる可能性が十分にあります。価値観と社会の変化は、それほど密接につながっています。その意味で、教育機関が重要になってくると思います。

「ピンピンコロリ」「在宅医療」などを追求することは
社会保障費や家族の問題を解決する上で大きな意味があるはずです

では、最後の答え「コミュニティが食べることと死ぬことを取り戻すことが、静かに変化の波を広げていくとよい」について、お聞かせください。

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 これまでにお話ししてきた「権力の分散」「市民参加型の行政」「稼ぐ仕事の縮小」といったシナリオには、すでにそれぞれ兆しが起きています。しかし、どれもまだ小さな兆しでしかなく、どのようにして大きな流れにしていけばよいかという課題があります。

 もちろん、強力な指導者や思想家が変革をリードする可能性は十分にありますが、一方で、人々の間に少しずつ広がっていく共感が、兆しを大きくする原動力になるのではないかというのが、まだかなりぼんやりとした私の仮説です。具体的には、コミュニティが「食べること」と「死ぬこと」を取り戻すことが重要ではないかと考えています。そこには経済的な合理性もあります。

 「コミュニティが食べることを取り戻す」とは、その地域の人々が、できるだけ自分の地域で作られた農作物や肉、魚などを食べるということです。少々高くついても、他においしそうなものがあっても、皆が自分の地域でできた食べ物を優先するということです。そうなるためには、土地利用を含めたまちの計画から始まって、商店街・飲食店のあり方、物流、そして文化や風習の継承など、コミュニティの住民がまちづくりに主体的に関わることが求められます。それが実現できれば、経済的には、貨幣経済の外部に豊かな自給自足・物々交換の関係性を広げることができるでしょう。また、それが地域の魅力となり、結果的に地域外から稼ぐ力も増し、交流が拡大していくことも十分に考えられます。こうした循環を作っていけたら、多くの人が幸せに生活する地域が実現できると思うのです。

 「コミュニティが死ぬことを取り戻す」というのは、亡くなる直前の日々を、病院ではなく自宅で過ごす習慣を作るということです。そのためには、家族やコミュニティが豊かな関係性を築くことが重要です。日本の在宅死亡率は、戦後の8割から低下し続けており、高度成長期に在宅死亡者と病院死亡者と逆転して、直近はわずか14%です。しかし近年は、在宅死亡率が上昇している地域が出てきており、地域差が大きくなってきています。ちなみに、先ほど少し触れた島根県海士町の在宅死亡率は40%超で、県内トップです。これからは、こういったことが関心を集めると思います。経済的には、もちろん右肩上がりの社会保障費の問題があります。「ピンピンコロリ」「在宅医療」などを追求することは、社会保障費や家族の問題を解決する上で大きな意味があるはずなのです。

 このようにして、コミュニティが「食べること」と「死ぬこと」を取り戻すことが、小さな兆しを大きく広げて、地域経済の形を変え、ひいては日本や世界をより良くすることにつながると考えています。

インタビュー:古野庸一 テキスト:米川青馬 写真:平山諭

太田直樹氏プロフィール

総務大臣補佐官

東京大学文学部卒。ロンドン大学経営学修士(MBA)。モニターカンパニー、ボストン コンサルティング グループ シニア・パートナーを経て現職。総務大臣補佐官として、総務大臣の地方創生、ICT/IoTの政策立案・実行を補佐している。コンサルタント時代は、ハイテク、情報通信、製造業を中心に、組織戦略策定・実行支援、企業ビジョン、事業開発、業務プロセス改革などのプロジェクトを数多く手がけている。

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