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オピニオン#31 鬼頭先生(前編) 2016/5/30 日本は今、史上4度目の人口減少・減退期を迎えています 静岡県立大学 学長 鬼頭宏氏

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社会視点少子化が悪いといわれるようになったのはごく最近のことで、
それ以前は、むしろ人口増加の方がよくないこととされていました。
社会視点人口支持力が限界を迎えると、必ず人口停滞期がやってきます。
社会視点江戸後期の人口減退期には、現代と同じように晩婚化、女性の活躍、死亡率の低下が起こっていました。

1974年の時点で、日本は人口減少を予測していましたが
1990年代まで、何の対策も行いませんでした

現代の少子化は、いつ頃から始まったのでしょうか。

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 1975年です。その年に特殊合計出生率が2.0を切り、少子化がスタートしました。ただもっと重要なのは、その前年、1974年に出された戦後2回目の「人口白書」で、「昭和85年=2010年」に日本の総人口がピークを迎え、その後は減少することを予測していたことです。この予測はほぼピタリと当たっており、国勢調査の総人口は2010年をピークに下がっています。日本に人口減少時代が来ることは、実は40年以上前から分かっていたのです。しかし、少子化対策が本格的に始まったのは1990年代に入ってからでした。人口が減少する未来を知っていたにもかかわらず、国は出口戦略を何も考えておらず、しばらく対策をとらなかったのです。また、マスコミが大きく取り上げたのも、1989年に特殊合計出生率が1.57を下回り、「1.57ショック」を迎えてからのことでした。

 ただ、これには理由があります。人口白書が出された1974年には、「日本人口会議」も開かれました。当時学生だった私は3日間、会議に通いましたが、そこでは実は、今とは逆に「人口抑制」「出生抑制」の必要性が強調されていたのです。1974年といえば、第一次オイルショックの混乱の真っただ中で、地球の資源が有限であると誰もが痛感しているときでした。また、発展途上国の経済成長と人口爆発がどんどん進行していました。資源の有限性や人口爆発を踏まえて、これからは人口を抑制しなくてはならないというのが当時の世界的な論調で、日本もその流れに乗っていたのです。事実、人口白書にも出生率を下げるのがよいという趣旨のことが書かれていました。つまり、少子化が悪いといわれるようになったのはごく最近のことで、それ以前は、むしろ人口増加の方がよくないこととされていたのです。現在の人口減少はそうした出生抑制の成果ともいえるもので、本当はそれほど驚くことではありません。

 もう少しさかのぼると、1972年が世界的な転換点でした。その年、ローマクラブが有名な『成長の限界』の報告書を出し、資源の枯渇や環境の悪化に警鐘を鳴らしました。また、ノーベル物理学賞を受賞したガボールが『成熟社会』という本を出して、今後は量的拡大ではなく、質的向上を最優先する社会に向かう必要があると訴えています。そして、この辺りから世界中の先進諸国が一斉に少子化トレンドに入り、1975~1980年には、スペインを除く先進諸国の特殊合計出生率が軒並み2.0を割り込んだのです。

 私は、その数年前、1968年に、世界が転換するきっかけになった出来事が起きたと考えています。はるか宇宙の「アポロ8号」から、クリスマスプレゼントとして、1枚の写真が送られてきたのです。月の周回軌道上から地球を撮影した「地球の出」の写真です。これが、当時の新聞や雑誌で大々的に掲載されました。この写真と、1972年に撮影された地球全球の「ザ・ブルー・マーブル」が、人々の意識に大きな変化をもたらしたといわれています。つまり、これらの写真を見ることで、地球がいかにちっぽけで、有限で、孤独な存在なのかを、多くが初めて知ったのです。そして、たった2枚の写真が、ものの見方、考え方、行動様式を変えていったのです。

現代を含めて、日本にはこれまで「4度の人口減少・減退期」がありました

先生の専門は「歴史人口学」ですが、日本には、これまでも少子化や人口減少があったのでしょうか。

写真2

 はい、ありました。実は、現代を含めて、日本は大きく「4度の人口減少・減退期」を体験しています。最初は縄文時代の中期から後期で、どうも人口が1/3くらいに激減したようです。次に、奈良時代から平安時代に人口が増えて、平安後期で停滞し始め、鎌倉時代に減少したことが分かっています。それから、室町時代から江戸初期に人口が増えた後、江戸中期から後期にかけて、およそ1世紀にわたってほとんど人口が増えませんでした。そして今、日本は4回目の人口減少・減退期を迎えているのです。

 これらの時期に人口が減少・減退した理由として、これまでは主に「気候変動」が挙げられてきました。確かに、縄文後期は寒冷化が進んで東日本の人口が急減していますし、鎌倉時代は逆に温暖化のせいで日照りの害が多かったといわれています。江戸時代の18世紀は寒冷化によって飢饉が頻発しました。

 こうした気候変動の影響は確かにあったのですが、私は、根本的にはもう1つ他の理由があると考えています。それは「人口支持力」です。人口支持力とは、環境や技術などによって規定された人口の限界量です。『人口論』を書いたマルサスは、最終的に食糧が足りないという制限によって、人口増加はどうしても規定されてしまうと考えました。歴史を見る限り、マルサスのいうとおりになっています。つまり、さまざまな技術発展のおかげで食糧生産量が増えると、人口支持力が上がり、人口が増える。そして、人口支持力が限界を迎えると、必ず人口停滞期がやってくるのです。その停滞期に飢饉などが起きて死亡率が短期的に上がると、人口を回復できなくなり、人口減少が起きてしまう。これが人口減少のメカニズムだと考えられます。

人口停滞期・減少期には、共通の特徴があるのでしょうか。

写真3

 江戸の話をすると面白いかもしれません。江戸初期の17世紀は、新田を開発する余地が大きかったため、農民たちは子どもを増やして一族を大きくし、経済水準を上げていきました。ところが18世紀になると、当時の環境や技術では経済をなかなか大きくできなくなりました。人口支持力が限界に突き当たったのです。そこで彼らは出生力を落としました。具体的には、1つ目に「晩婚化」が進みました。晩婚化といっても、3~4歳ほど婚期が遅れただけですが、それで1人か2人、子どもの数を減らすことができました。晩婚化がなぜ進んだかといえば、1つには、織物や糸紡ぎなど、女性が活躍できる仕事が増えたためです。また、食糧が行き渡って栄養状況が改善され、子どもの死亡率が下がったことも大きく影響しています。晩婚化、女性の活躍、死亡率の低下。まるで現代のようですね。

 出生力を落とす2つ目の方法は、間引き、堕胎や捨て子(迷子)でした。日本各地にはさまざまな間引き、堕胎、捨て子の慣行があったようです。明治以前の日本には「7つまでは神のうち」という考え方がありましたが、この言葉は、7歳までの子どもが死にやすいのを諦める方便でもあり、生まれ変わってくるから間引いてもよいという意味でもあったのです。他方では、ヨーロッパの教会が捨て子を収容したように、日本でも、捨て子や迷子をお寺の子、町の子として育てた地域もありました。さまざまな制度や伝統があったことが分かっています。

 それから、出生率を下げるために、さまざまな工夫がなされたことも判明しています。例えば、18世紀初頭の元禄期のお医者さんは、授乳期間を長くすると、次の子どもを妊娠しにくくなることをすでに知っており、長期間の授乳を勧めていました。最後に、都市が人口抑制の役割を果たしていた面があります。今も昔も、都市には独身者が多い。特に大阪の商家などは、出世しないと結婚ができない厳しい世界でした。このような多面的な動きのなかで、全体として人口が停滞していたのが日本の18世紀だったのです。

インタビュー:古野庸一 テキスト:米川青馬 写真:伊藤誠

鬼頭宏氏プロフィール

静岡県立大学 学長

1947年、静岡県生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業、同大学院博士課程単位取得退学。上智大学経済学部教授、同大学院地球環境学研究科教授を経て、2015年より現職。主要研究テーマは、日本経済史、歴史人口学。著書に『愛と希望の「人口学講義」』(ウェッジ)、『人口から読む日本の歴史』(講談社)、『2100年、人口3分の1の日本』(KADOKAWA/メディアファクトリー)など多数。

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