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2030年の「働く」を考える

オピニオン#24 貝島先生 2015/7/13 今後も海の豊かさを長く享受するために、バランスを考える時期に入ったと感じています アトリエ・ワン 筑波大学 芸術系 准教授 貝島桃代氏

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個人視点カキ漁をはじめとするさまざまな生活スキルなど、桃浦の漁師さんたちの「生活の豊かさ」に私は魅せられています。
社会視点各地域に合った人口バランスや社会モデルがあるはずで、人口が増えればよいわけではありません。
社会視点地域は、多様なスキルをもった方を新たな住民として迎えたらよいのではないでしょうか。

東日本大震災の数カ月後から、石巻市桃浦の復興プロジェクトに関わっています

貝島先生の本業は建築家で、筑波大学で建築を教える先生でもいらっしゃいますが、現在、石巻市桃浦の復興に深く関わっていらっしゃいます。関わることになった経緯から、お教えいただけたらと思います。

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 建築家にはサッカー好きの人が多く、定期的に集まっては、サッカー大会を開いています。東日本大震災直後、そのサッカー大会のメーリングリストで、自分たちも建築家として何か復興に貢献できないだろうかという話し合いが行われ、2011年4月、12名の設立発起人と300名ほどの賛同者によって、東日本大震災における建築家による復興支援ネットワーク「アーキエイド」が立ち上がりました。

 アーキエイドをとおして私たち筑波大学貝島研究室が参加したのが、石巻市半島部の各地区の要望をヒアリングするサマーキャンプです。2011年7月、石巻市の中心部ではすでに多くの支援活動が行われていましたが、中心部から遠く離れた牡鹿半島の浜のほうには支援の手が十分に回っておらず、細かな要望が掴めていませんでした。そこで、サマーキャンプ参加者が手分けして半島部へ伺うことになったのです。私が「桃」代なので、筑波大学貝島研究室は桃浦、月浦、侍浜という3つの浜の担当に。10年ほど前から茨城県でまちづくりに関わってきた経験はありましたが、石巻は初めて訪れる土地。何ができるかまったく分からないけれど、とにかく行ってみようというのが始まりでした。

 赴いてみると、桃浦では皆さん低平地にお住まいだったこともあり、船も家もほとんどが流されてしまっていました。私たちが伺ったのは、地元小学校にあった避難所がちょうど解散し、桃浦に仮設住宅が作られなかったため、皆さんそれぞれ近隣地域の仮設住宅などに移った直後のこと。日々、さまざまな場所から桃浦に集っては、ガレキ処理をしながら、今後のことを話し合っていらっしゃいました。

 一番の課題は、どうやって再び桃浦に戻ってくるかということでした。低平地にはもう家を建てられませんし、高台移転地を建設する話は当時からあったのですが、結局、完成したのは今年2015年。他に、家を建てるのにふさわしい場所はなく、皆さんどうしたものかと悩んでいました。移住を余儀なくされた方も多くいらっしゃいます。

 もう1つの課題は、カキ漁の後継者不足。桃浦は昔からカキの養殖が盛んなところで、震災以前は、どの家も家族経営でカキ養殖会社を運営しており、男手は海へ出て、女たちはカキの種付けやカキ剥きをするといった家庭内工業の仕組みができ上がっていました。ただ一方で、戦後の金の卵たちの集団就職から始まって、高度成長期は都市部に出たまま戻ってこない若者が増え、カキ漁を引き継ぐ人が徐々に減少。震災前、すでに桃浦では後継者不足が顕著になっていました。

 震災ですべてが流されましたから、事業を再開するには数千万円が必要です。家族ごとに借金するのは大変だし、リスクが大きいので、希望者が協力して会社を立ち上げるアイデアが出ていました。現在の「桃浦かき生産者合同会社」です。しかし、後継者や住民が少ないままでは、地域の復興にはならない。その課題の解決策をサマーキャンプで話し合ううちに、「漁師学校」というアイデアが生まれました。2013年から始まった「牡鹿漁師学校」の原点です。

貝島先生は、桃浦でどのような活動をされてきたのでしょうか。

 牡鹿漁師学校に関しては、私と筑波大学貝島研究室のメンバーが、事務局運営、プログラム作成、参加者募集などの一連の業務を担当しています。こういったことは、大学教授の専門スキルの1つでもありますから。他には、高台移転地に対する住民要望の取りまとめと工事サポート、低平地活用についての住民要望のヒアリングと取りまとめ、市への提案などを行ってきました。桃浦だけでなく、牡鹿半島復興計画のためのデザインパタンブックを作るといった活動もしています。建築家としては、地域再生最小限住宅「コアハウス」のモデルハウスを建てました。さまざまな方にお話を伺っていて、家を建てることに苦慮されているケースが多かったことから考えたもので、まず最低限の建物を建て、その後徐々に増築していける仕組みになっています。

漁師の皆さんの高い技術を伝え、海と山をテーマに住みたい人を広く募集するのが、「牡鹿漁師学校」

牡鹿漁師学校について、もう少し詳しくお聞かせください。

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 桃浦のカキ漁師さんたちは、先人も現役の方々も失敗や苦労を繰り返しながら、カキ漁の技術に改良を加えてきたそうです。そして、震災前にようやく桃浦に最適の養殖法に辿り着き、安定してカキを獲れるようになった。漁師さんたちには、培ってきた高い技術を途絶えさせたくないという想いがあります。そこで皆さんのカキ漁の技術を開示して伝授し、海と山をテーマに住みたい人を広く募集するのが牡鹿漁師学校です。

 2013年の春、ようやくさまざまなことが落ち着いて、桃浦の皆さんのなかに漁師学校を始める機運が起こってきました。区長さんの取りまとめで桃浦浜づくり実行委員会が立ち上がり、ゼロから少しずつプログラムを固めていって、2013年8月に第1回を開催。漁師に興味のある大学生や20代から、第二の職業人生を考える40代、退職した後の人生を考えている60代まで、総勢15名の参加者が3日間、漁師さんたちの技術を学びました。実際にそのうちの2名が、桃浦かき生産者合同会社にカキ漁師見習いとして就職しました。その後、今までに4回開催し、いずれも盛況のうちに終了。2015年8月に、第5回を実施する予定です

 課題となっているのは、やはり居住地です。漁師学校をとおしてカキ漁師に興味をもっている方は何人もいらっしゃるのですが、現状は住む場所を見つけにくい。本格的に移住者を増やすには新たに整地する必要があり、市への検討をお願いしているところです。

 最近の漁師学校は、漁師一色ではありません。もう少し広い視野で、将来桃浦に移り住みたい方、2拠点居住や地域交流に興味のある方などを積極的に受け入れていますし、参加者の皆さんのプロフェッショナルスキルをもっと活かしていきたいと思っています。第5回は「食」がテーマ。料理人や水産関係の物流などに携わる方々にぜひ参加していただき、漁師さんたちとコラボレーションしていただけたらと考えています。

桃浦にいると、今まで考えたこともなかった課題をいくつも突きつけられる。
学ぶことばかりです

先生はなぜここまで桃浦の再興に深く関わり、一生懸命に活動されているのですか。

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 完全なボランティアなので、普段の仕事の枠組みではできないことにチャレンジでき、仕事では実現できない結びつきを創ることができる、というのが1つの理由です。普段ならお願いしにくい方を漁師学校の講師にお呼びできますし、ETIC.さんや日米協会さんに資金提供をお願いするといった活動も新鮮です。彼らとコミュニケーションするなかで想像力が喚起され、新たなアイデアが生まれたこともありました。

 桃浦の人々と接すること自体が楽しいということもあります。ここに来るようになってから、私は天気を気にするようになりました。漁師さんと天気の話を始めると、「暖かくなってきたから、そろそろあの魚が獲れる」とか、「この時期に風が強くなると困る」とか、さまざまな話を伺えるのです。皆さん、本当に自然に敏感です。

 生活スキルがたくさんあるのも特徴で、漁師さんたちはカキ漁以外にも、少ない装備で主に自家消費用の魚を獲る「小漁」、刺し網漁、かご網漁、海草採りにナマコ漁をして、裏山の自家菜園で野菜を栽培し、山菜採りにも行きます。魚介類の旬がやってくると血が騒ぐようで、カキ漁が休みの日には、早朝から皆で楽しそうに海の幸を捕まえています。彼らにはたくさんの生業があり、どこまでが職業でどこからが生活なのか、にわかには分かりません。当然ながら、桃浦ではその季節に収穫したものを食べます。旬のものと向き合って生きているのです。

 夏と冬で、漁師さんたちのライフスタイルは変わります。夏になると、午前2時起床で4時に海へ出て、10時には帰ってきます。その時間しか魚が活動していないからです。冬は魚の活動時間がもっと遅くなりますから、それに合わせて漁に出る時間が変わります。1年の生活リズムもだいたい決まっていて、カキ漁は10~1月が忙しく、特に7~8月が暇なので、かつて桃浦ではその頃に皆で順番に温泉休暇を取る習慣があったそうです。

 こういった環境で、仕事では考えたこともなかった課題をいくつも突きつけられるのが面白いのです。例えば、漁師さんたちの生活を見ていると、お金のことをよく考えさせられます。彼らはほとんどの食べ物を各自で賄いますから、食費が都会と比べものにならないほど安い。医療費や教育費などを別とすれば、日々の暮らしのなかでは、ほとんどお金を使わなくてもやっていけるのです。お金がなければ何もできない都会の生活との違いを痛感します。

 最近、東京でスーパーに行くと、なぜこの魚がこの時季に並んでいるのだろうなどと考えるようにもなりました。スーパーで魚を買うときに獲った人が分かり、食べた後でその人に会いに行ける「新たな生産と提供の仕組み」ができたら面白いのに、といったことも想像します。今後は都市部と地域の交流が楽しみの1つになるはずです。牡鹿漁師学校も、そういった交流の場所にできたらと考えています。

 以上を一言でまとめると、つまり、私は桃浦の漁師さんたちの「生活の豊かさ」に魅せられているのです。歴史的視点、生態学的視点なども絡めて、その豊かさの言語化にもチャレンジしていきたいと思っています。

これからここに、何世帯住むのがいいのか
最適な人口バランスや生活モデルを考えられたら

桃浦の復興の現状をお教えください。

 災害復旧計画は、「災害前に戻すこと」を目指しており、戻れる人全員が戻る計画を初年度に決めたまま、変えていません。しかし、実際に戻る人はどんどん少なくなっているのです。家族に負担をかけたくないと他の場所に家を建てた方、都市部の息子さん、娘さんなどを頼って引っ越した方、ご高齢で一人暮らしができなくなった方、さまざまな事情で戻れなくなった方などがいらっしゃって、高台移転地に戻る予測世帯数は年を追うごとに減っています。そのため、結果的に災害復旧で提供される施設の質が高すぎるという事態が起きています。例えば、桃浦には立派な港ができ上がりましたが、使っている人は震災前より相当少ないのが現状です。おそらく、他の地域でも同様の現象が起きているのではないかと思います。

 その意味でも後継者を増やす必要はあるのですが、しかし私は、むやみに人が増えるのはよいと思いません。実は高度成長期、都市部に出て行く人が多かった一方で、漁村の人口密度も高まっていました。桃浦にもピーク時には500人が住んでいたそうです。私は、それはちょっと多すぎたのではないかと思います。土地も魚の量も限られているのですから、地域に合った人口バランスや生活モデルがあるはずです。今後も海の豊かさを長く享受するために、私たちはバランスを考えなくてはならない時期に入ったと感じています。震災前は65世帯でしたが、今後は桃浦にいったい何世帯住むのがいいのか、住民のみなさんと一度じっくり考えたいと思います。

多様なスキルを身につけた生活力の高い人が集えば、互いにカバーして、
楽しく暮らしていけるのでは

桃浦の今後をどのように考えていらっしゃいますか。

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 人口とは別に、「専門性」のことも気にかかっています。これまでの漁村は、少し専門性が強すぎたのではないかと思うのです。産業化、職能の進化はよいことですが、弊害もあります。もっと多様なスキルをもった方を新たな住民として迎えたらよいのではないかと思います。現在、かき漁師見習いである漁師学校出身の2名のうちの1人はコンピューターや機械に強く、ITスキルを地域に役立てていると聞きます。こうして地域にスキルが増えていくことが、地域の未来を変える力になり得ます。

 一方、漁師見習いの方々は、日々、漁の技術を磨き、漁師としての経験を積み、桃浦の人々の生活スキルを学んでいます。例えば、漁師さんたちは海を汚さないように、料理後に残ったフライパンの油は洗う前にしっかり紙で拭き取り、その紙を燃やしてしまいます。こういった「地域の常識」を覚えながら、少しずつ土地に馴染んでいるのです。彼らの姿を見ていると、多様なスキルを身につけた人々が集い、互いに学び合って生活力を高めていけば、少ない人数でも、皆で助け合いながら楽しく暮らしていけるのではないかと感じます。

インタビュー:古野庸一

貝島桃代氏プロフィール
アトリエ・ワン
筑波大学 芸術系 准教授
1969 東京都生まれ
1991 日本女子大学住居学科卒
1992 塚本由晴とアトリエ・ワン設立
1994 東京工業大学大学院修士課程修了
1996-97 スイス連邦工科大学奨学生
2000 東京工業大学大学院博士課程修了
2000- 筑波大学講師
2003 ハーバード大学大学院客員教員
2005-07 スイス連邦工科大学客員教授
2009- 筑波大学准教授

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