経営者が語る人と組織の戦略と持論 日産自動車株式会社 副会長 志賀俊之氏

経営者には経営者になることを望んで夢をかなえた人と、予期せぬきっかけでその職に就いた人がいる。
カルロス・ゴーン氏の女房役として、外資となった日産自動車(以下、日産)を牽引してきた志賀俊之氏は前者のタイプだ。
そのキャリアの軌跡と、リーダー論を語っていただいた。


入社時の予想外の部署への配属

学級委員長、剣道部主将、生徒会長と、人の前に立つのが好きな根っからのリーダータイプ。父親が和歌山の日産販売会社に勤務しており、志賀氏も車好きだったことから、「将来は日産に」と考えていた。

大学3年のとき、志賀家に思いもかけぬことが起きる。父親は順調に出世し、役員手前まで来ていたのに、本社からの出向者にポストを奪われてしまったのだ。本人は大きく落胆していた。志賀氏も口惜しさのあまり母親にこう言った。「俺、日産本社に就職する。将来、和歌山日産の社長として戻ってきて、親父のポストを奪ったやつを追い出してやるから」と。

そんな志賀氏に、自分が大きく成長したと考える仕事経験を3つ挙げてもらった。

1つ目は入社時の予想外の部署への配属だ。ボートやヨットを扱うマリン事業部である。自動車会社にあっては傍流部署だ。同期と飲んでも、今度の新車はさ……という話題についていけず疎外感を味わったが、志賀氏は腐らなかった。本人が話す。「自動車に移ったとき、マリン出身者は使えないと陰口を叩かれないよう、仕事に関することはもちろん、英語も一生懸命、勉強しました」

同部はその年に立ち上がった新生の部署で、志賀氏は販売店網の整備からボート見本市の企画と運営まで、何でもやらされた。地方の販売店が倒産、手形が不渡りになったため、債権者に奪われないよう、会社所有の展示ボートに赤札を貼りに行ったこともあった。

1983年にアジア太平洋営業部に移り、中国担当をはさんだ1987年、インドネシア参入プロジェクトのリーダーとなる。2つ目の成長経験である。

当時はアセアン諸国の勃興期だったが、同国での日産の実績は微々たるものだった。商権を握っていた、大統領と昵懇の政商が壁になっていたのだ。それに代わるパートナーを見つけ、商権を移すまでに4年もかかった。

1991年3月、工場建設を含め、参入の詳細を記した提案書を経営会議に提出するが、あっけなく否決。バブルが弾け、前年末に財務責任者が、すべての海外投資を凍結すると宣言していたからだ。「すごく頭に来ました。この4年は何だったのかと。何より商権移設に共に尽力してくれた現地のパートナーに申し訳ないと」

インドネシア進出に道をつける

ここからの行動がすごい。志賀氏は「ジャカルタ事務所設立の件」と大書し、下の方に「事務所長 志賀俊之」と勝手に記した提案書を役員に持参した。すると、「おお、ジャカルタに行くのか」と印を押してくれた。しかも1週間後に正式な辞令まで出てしまう。

1991年10月に赴任。商社のオフィスに間借りしての1人駐在である。現地に来てしまえば何とかものになるだろう、と思ったが、そうは問屋が卸さなかった。業績悪化のため、日産本体がリストラモードに入っており、提案書はことごとく通らない。それでもめげずに送り続けると、業を煮やした役員が「社長に直接頼め」と道をつけてくれた。1993年のことである。帰国して1人で社長室に赴き、当時の辻義文社長に、インドネシア投資の意義を熱弁すると、「分かった」と言ってジャカルタ視察を約束してくれた。

現地を見て納得した辻氏はプロジェクトの規模を縮小させた上で投資を認めてくれた。1994年10月のことである。「ジャカルタ行きを認めてくれた役員が、3年くらい修業のつもりで行き、期間内に成就できなかったら帰ってこい、と言っていたんです。奇しくもちょうど3年で片をつけることができました」

1996年秋に工場ができ、すぐフル生産に入った。翌年3月、志賀氏は凱旋気分で本社に戻り、企画室勤務となるが、7月にアジア通貨危機が起こり、新会社は畳まざるを得なくなる。ところが志賀氏には落胆する暇もなかった。日産本体が危機に瀕していたからだ。1998年5月には銀座の本社ビルが売却される。大リストラの始まりだった。

その6月からルノーとの極秘交渉がスタート。メインの交渉役に抜擢されたのが45歳の志賀氏だった。これが3つ目の経験である。「上司にあたる役員が男気のある人で、こういうタフな交渉は若いのがやった方がいいと。塙義一社長も同意してくれました。2人とも懐が深かった」

東京とパリを何度も往復した。夜の便で出発してパリに着き、現地時間の昼間に交渉し、再び夜便で帰ってくる。無泊3日が当たり前だった。席もエコノミーだったが、見かねた塙氏が何度かビジネスの使用を許可してくれた。

志賀氏の奮闘のおかげもあって、交渉がまとまったのが翌1999年3月27日のこと。「実はルノーと並行して交渉を進めていたダイムラーが3月10日に交渉打ち切りを宣言、翌日から日産の格付けがガタ落ちし、借り入れが一切できない状態に陥っていました。あのタイミングでルノーとの契約が成立しなかったら、完全にアウトでした」

20代で意に沿わぬ部署で同期とまったく違う多様な仕事を経験、30代後半から40代前半は海外で新事業をたった1人でゼロから立ち上げるベンチャー企業の社長のように働き、40代半ばでは沈みゆく会社を救うべく外資との提携交渉の前面に立つ。その3つの仕事経験が、志賀氏をかくあらしめたということだろう。

独りよがりは駄目なんだ

さて、リーダー・志賀俊之を語る際、もう1つ重要なできごとがある。中学3年生のことだ。前年に別の中学校から転校してきた志賀少年は、男子丸坊主の校則に違和感を抱き、生徒会長になったのを機に、「坊主頭をやめよう」と全校に呼びかけた。それに対して教師が「アンケートをとって多数意見だったら考えよう」と言った。志賀少年は同意し、アンケートを実施すると予想外の結果が出た。男子も女子も「坊主頭でいい」という意見が多数だったのだ。

志賀少年は愕然とし、打ちひしがれた。体育館の舞台の端にある幕の中に椅子を持って入った。そこでなら、誰はばかることなく、大声をあげ思いっきり泣けるからだ。「幼少の頃、おままごと遊びをやって、君はお父さん、あなたはお母さんといつも配役を決めるタイプでした。坊主頭の件も私が言えば皆が賛成してくれると信じていた。でも独りよがりは駄目なんだと初めて気づいたのです。お父さん役、お母さん役をやらされた子どもたちも内心いやだと思っていたかもしれないと。その挫折を経て、共感という言葉が私の座右の銘になりました。それから人が変わりましたね。マイクロマネジメントはやめ、何をやりたいのか、皆に聞きながら物事を進めるようになりました」

そうした共感の醸成が大いに生きたのが、2000年に常務となり、当時、「二線級の市場」とみなされていた日米欧の先進国以外の約140カ国の責任者を任されたときだ。「日産と現地の販売会社との関係改善を図ったのです。短期的な数字を追いかけるのではなく、長期的な信頼関係をベースに、お互い切磋琢磨していこうという大方針を決めました。その上で、こういう仕事を、こんな姿勢でやろうというビジョンや方向性を出し続け、共感の連鎖を拡大していくことで、成果につなげていきました」。当初は赤字だらけだった担当国が次々に黒字化、総販売台数も当初の3倍近くにまで伸びた。志賀流の共感マネジメントの成果だった。

ゴーン氏から学んだ究極のリーダーシップ

志賀氏は経営者が備えるべき能力を3階層に分けて考える。

1つは「仕事ができる」というレベルだ。専門分野の知識を十分に備え、他者と協働し、時には説得することができる力だ。その次が周囲を奮い立たせ、1つの目標に向かって一致団結させられる力である。チームを引っ張る力といってもいい。最後が過去のしがらみを絶ち、新たなことへのチャレンジを促す変革的リーダーシップである。

「日本の大企業の悪い点は、仕事ができる人が役員や副社長レベルにすぐ上がってしまうこと。そのなかから社長が選ばれるわけですが、その人がチームを率いていけるか、あるいは組織を根底から変革できるかは、まったくの未知数です。仕事ができる人の延長線上に社長というポストがあるのは組織にとって大きな不幸です。そういう人はリストラや事業撤退など、皆が嫌うことができない。皆が嫌うことをやるのがマネジメントであり、にもかかわらず、会社の方針なら今は苦しくても歯を食いしばって頑張ります、と社員に思わせられるのが究極のリーダーシップです。ゴーンさんのそばにいて学んだことです」

中央教育審議会の委員でもある志賀氏は、若い頃に「何になりたいか」という夢をもつことの重要性を強調する。大学時代に抱いた、和歌山の日産販売会社の社長になる自身の夢はかなわなかったが、日産の最高執行責任者になった。そのことを電話で母に告げたところ、こう返ってきた。「……そう、腐っちゃ駄目よ」と。

【text :荻野進介】

※本稿は、弊社機関誌 RMS Message vol.44 連載「Message from TOP 経営者が語る人と組織の戦略と持論」より転載・一部修正したものです。
RMS Messageのバックナンバーこちら
※記事の内容および所属・役職等は取材時点のものとなります。



PROFILE
志賀俊之(しがとしゆき)氏
日産自動車株式会社 代表取締役副会長

1953年和歌山県生まれ。1976年大阪府立大学経済学部卒業。日産自動車入社。1991年アジア太平洋営業部ジャカルタ事務所長、1997年企画室に移り、仏ルノーとの提携を推進。1999年企画室長兼アライアンス推進室長として日産リバイバルプランの立案・実行に尽力。2000年常務執行役員。2005年代表取締役兼COO(最高執行責任者)を経て、2013年代表取締役副会長、2015年6月より現職。

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